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Nonfiction

読み物

ペルパタオ −我歩く、故に我あり 茂木健一郎

第102回 [2020年4月某日 観る者なき宇宙で]

更新日:2020/05/13

「無観客」というメタファーに、私はこのところ魅せられている。
 音楽家が観客なしで演奏する。歌手が誰もいないスペースで歌う。誰も見ていないところで、演劇のドラマが進行する。そんな事態が、昨今の状況の中でリアリティを持って感じられるようになってきた。
 多くの人が自宅で長い時間を過ごすようになり、劇場に出かけることができなくなった。そんな状況の中で、オペラが無観客で上演されてインターネットでストリーミングされたり、落語家が寄席をインターネットで開催するなどの試みが行われている。 
 大相撲の本場所が無観客で行われ、力士同士がぶつかる音が静寂の中に響いた。オペラの幕が下り、拍手がないしーんとした時間の中で、歌手たちや指揮者、演出家が出てきて、まるでパントマイムのようにお辞儀をしている様子を、何百キロ、何千キロも離れた場所から見ている。そんな時間に立ち上がるひんやりとした「リアリティ」が、この時代を特徴づけている。
「無観客」であろうとなかろうと、パフォーマーがやるべきことは変わらない。誰も見ていないところで、命の限りを尽くして行動することは、生命の根本でもある。
 アフリカのサバンナで、チーターに追いかけられているインパラの走りは、「無観客」である。誰も見ていないとしても、その走りが必死であることには変わりがない。
 あのような場面を、私は自然番組でしか見たことがないけれども、インパラが懸命に走っているのが、それでもどこか余裕があるようにも見えてしまって、後ろから追いかけるチーターに捕らえられたらがぶりとやられて死んでしまうのに、もっと必死にならないのか、焦らないのかと思ってしまう。
 都会の公園を歩いていると、時折、一生懸命にネタ合わせをしている若者二人組を見ることがある。おそらく、駆け出しの芸人さんで、舞台にかける前、あるいはオーディションやコンペの準備で練習しているのだろう。観客はいないけれども、いつか満場の観客の前でやることを夢見てがんばっている。そんな姿は眩しい。
 アリストテレスは「自然は真空を嫌う」という言葉を残した。同じように、パフォーマーは「無観客」を嫌う。
 私は子どもの頃から東京の寄席に通っているけれども、落語家さんたちは、しばしば、お客さんが少ない日のことをネタにする。高座に上がって客席を見て、二人しかいないと、お客さんがなぜか「追い詰められた」ような表情になるなどと言って爆笑を誘う。二人しかいないのに一人がトイレに立ってしまって、残されたお客さんはますます思いつめたような顔になるなどと落語家さんが語る。
 あのような落語家さんのネタの背後には、きっと、寄席の高座に上がってお客さんがいない、極端なことを言えば一人もいないという無観客の状況に対する根源的な不安、恐怖のようなものがあるのだと思う。
しかし、嫌うからと言って、無観客に独自の味わいがないわけではない。むしろ、私たちは、無観客をこそ「友」とすべきなのではないか。
 無観客には、この世の成り立ちの根本に関わるような認識への扉がある。その扉を抜けて向こう側に出ると、これまで見ていたのとは違う景色が広がっている。
 そもそも、私たちの人生というものは、いつも無観客ではなかったか。
 自分がどんなに素晴らしい経験をしても、つらい思いをしても、その観客は、常に自分だけ。他の観客はいない。
 だからこそ、私たちはそれを何とか伝えようという衝動を持つ。文章にしたり、絵を描いたり、映像を撮ったりする。それでも伝わることは、もどかしい。
 もっとも恐ろしいのは、自分の人生でさえ、自分が良き観客とは言えないことだ。自分の人生で起こっていることの意味、その真実に、自分自身が気づかないことはしばしばある。
 古代ギリシャの演劇における「コロス」は、「理想化された観客」であるとも言われる。舞台上で起こっていることの意味を理解し、聴衆に向かって解説する。悲しいときには嘆き、うれしい際にはよろこぶ。そのような「コロス」は、私たちの人生には残念ながら存在しない。
 ソーシャルメディアで、自分の生活の断面をシェアしたり、ネット上の観客に向かって発信するといったことが習慣化している現代、世界はそもそも元々無観客だったのだという事実を忘れがちである。 
 どんな絶景であっても、それを見る人はいないというのが宇宙のむしろ基本である。
 宇宙は元々、観客などなしに勝手に進行してきた。その歴史の中にはたくさんの壮観や劇的進行があっただろう。ただ、その殆どを誰も見聞きしていない。
 だからこそ、かろうじて世界を目撃できる私たちの意識が愛しく、切なく、弱々しい。
 映画『ブレードランナー』のラスト近く、俳優のルトガー・ハウアーが即興のアドリブで語ったと言われる名セリフ、「私は君たちが信じられないようなものを見てきた。オリオン座の片隅で炎上する攻撃宇宙船。タンホイザーゲートの近くの暗闇で光るC-ビーム。これらのすべては、やがて失われる。雨の中の涙のように」は、観客があること、観客でいることの頼りなさを示す。
 この宇宙では、観客がいないのが当たり前である。奇跡のように観客が成立するとしても、それは不完全なものであり、いつかは跡形もなく消えていってしまうのだ。
 無観客こそが、この宇宙の根幹である。私たちには無観客の覚悟が必要なのだ。無観客の扉を開いてこそ、存在のリアリティに接続できる。

著者情報

茂木 健一郎 (もぎ けんいちろう)

1962年東京生まれ。東京大学大学院理学系研究科物理学専攻課程修了。理学博士。脳科学者。理化学研究所、ケンブリッジ大学を経てソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー。「クオリア」(感覚の質感)をキーワードに脳と心の関係を研究するとともに、評論、小説などにも取り組む。2005年『脳と仮想』(新潮社)で第4回小林秀雄賞を受賞。2009年『今、ここからすべての場所へ』(筑摩書房)で第12回桑原武夫学芸賞を受賞。近著に『生命と偶有性』(新潮選書)、『東京藝大物語』(講談社)、『記憶の森を育てる 意識と人工知能』(集英社)ほか多数。

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