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Shueishagakugei

謹んで「熊本地震」災害のお見舞いを申し上げます。

熊本地震により甚大な被害が発生いたしました。
お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りいたしますとともに、
被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。
一日も早く平穏な日々が戻りますよう、そして復旧がなされますよう心よりお祈り申し上げます。

(株)集英社

  • 集英社・熊本地震災害被災者支援募金のお知らせ

謹んで地震災害のお見舞いを
申し上げます。

東日本大震災により被災された皆様に、心からお見舞い申し上げます。
また、被災地等におきまして、救援や復興支援など様々な活動に全力を尽くしていらっしゃる方々に、深く敬意と感謝の意を表しますとともに、一日も早く復旧がなされますよう心よりお祈り申し上げます。

(株)集英社

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Nonfiction

読み物

ペルパタオ −我歩く、故に我あり 茂木健一郎

第10回 [2016年某月某日 錨を降ろしながら]

更新日:2016/07/13

 私は、どうも、開かれた水(オープン・ウォーター)に対して、根源的な恐怖を抱いているようだ。
 松山出身の人に、子どもの頃から、海でよく泳いでいた、という話を聞いたことがある。そんなことは、想像しただけで恐ろしくて仕方がない。
 松山と言えば夏目漱石だが、『こころ』の最初の方で、海の沖に泳いでいく「先生」を追いかけるシーンも、読んでいて、なんだか足のあたりがひんやりとする。
 プールで泳いでいるのならば、疲れたら、サイドに行ってつかまることができる。
 しかし、始まりも終わりもない水の中で、もし疲れてしまったら、どうしたらいいのか。
 「始まりも終わりもない」というのは、ウェーバーの歌劇『魔弾の射手』の中にも出てくる「神さま」の形容だが、ひょっとしたら、私は、開かれた水を、「神さま」のようなものだと思っているのかもしれない。
 だから、行程の中に開かれた水の中での泳ぎが含まれる、トライアスロンの競技には、何度誘われても、どうしても参加する気にならない。
 岸が近い、海辺でのシュノーケリングくらいだったら、やることができる。そのようなときでも、ついつい立ち上がって、陸地の方を確認してしまう。
 思うに、水の中にいることが自然であるはずの魚たちもまた、開かれた水は、不安になるということがあるのではないだろうか。
 その証拠に、海底のあちらこちらにある珊瑚の近くを泳ぐ時、魚たちは明らかにホッとした、ゆったりとした表情を見せている。その一方で、珊瑚と珊瑚の間の、何のとっかかりもない水を泳いでいる時には、魚たちは、どこか落ち着きのない、キビキビとした動きを見せているようにも思えるのである。
 もっとも、すべては、開かれた水に不安を感じる私の心理が投影されただけなのかもしれない。
 思うに、生命にとって、固定された「錨(いかり)」のようなものは常に必要なのではないか。宇宙空間においては、生命を育む惑星がその「錨」となる。宇宙の真空が隔てる空間の文法においては、生命が生息するに適した惑星と、惑星の間の距離は、絶望的なほど遠い。
 だからこそ、私たちは、当分の間、この地球を、唯一の「錨」と思いを定めて生きていくしかない。
 水の中ほどではなくても、地上においても、また、私たちは「錨」を必要としているようだ。
 もっとも、「錨」の意味は、茫漠たる空間をたっぷりと味わった後にこそ、心に染みてくる。
 よく知らない街の、通ったことのない裏通りを歩くのが好きである。特に、人々が、「仕事」という一つのモードから、その後のさまざまというもう一つのモードへとうつろいゆく、夕暮れ時に歩くのがうれしい。
「錨」は、空間の中だけでなく、時間の中にもある。オフィスの中で、これこれのことをする、というかたちでの文脈が、「錨」となる。夜、誰かと待ち合わせて、会食をし、語り合うという約束が「錨」となる。
「錨」と「錨」の間を移動している時、人は、最も自由になる。そして、根源的に不安になる。
 夕暮れの街を歩いている時に、しばしば、とてつもなく不安な気持ちに包まれるのは、自分を普段つなぎとめているさまざまな社会的「錨」が消え、ひとりの裸の人間になるからであろう。
 その時にだけ、私は、本当の意味で生きているという、そんな気さえする。
 しばらくすべての文脈から解放されて歩いていると、逆に、心理的に、「錨」を再び必要とする、そんな衝動が生まれてくる。
 よく見知っているところ。そこで、いくつかの幸せな時間を過ごしたことがある場所。そのような「錨」に出会うと、無軌道な散歩の中にいた私はほっとする。
 新宿三丁目にある寄席、「新宿末廣亭」は、そのような場所の一つだ。界隈の雑踏を散歩していて、そのあたりに近づくと、つい、少し寄り道してでも、末廣亭の前を通ってみる。
 中に入ってみる時間が常にあるわけではない。むしろ、ないことが多い。それでも、今日は誰が出ているかな、と番組表を見る、その時間の幸せは、何ものにも代えがたい。
 贔屓(ひいき)の落語家さんが出ていると、胸が弾む。見知らぬ若手の名前に、どんな人だろうと想像する。長年活躍されている漫才コンビの名に、どうかいつまでもお元気で、と祈らずにはいられない。
 たとえ、入ることができなくても、ひょっとしたら私は木戸銭を払って聞いてしまうかもしれない、という微妙な心の揺れ、甘い誘いが、一つのアクセントになるようなのだ。
 思うに、すべての「錨」は、むしろ人の心をざわざわさせるものなのではないだろうか。ひとまずの安息が得られることにほっとする一方で、再び、「開かれた水」の中に出ていくというその目論見、予感に胸が弾む。
「開かれた水」と「開かれた水」の間の「息継ぎ」としての「錨」。
 結んで、それから、開かれて。そのような呼吸の中にこそ、有限の私たちの生命が、無限の「神さま」とやりとりする時の、一つの秘儀があるように感じる。
 歩く者にとって、「錨」は、無限と向き合う時の、足の下の土なのだ。足の裏は、常に、土の表情を探っている。

著者情報

茂木 健一郎 (もぎ けんいちろう)

1962年東京生まれ。東京大学大学院理学系研究科物理学専攻課程修了。理学博士。脳科学者。理化学研究所、ケンブリッジ大学を経てソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー。「クオリア」(感覚の質感)をキーワードに脳と心の関係を研究するとともに、評論、小説などにも取り組む。2005年『脳と仮想』(新潮社)で第4回小林秀雄賞を受賞。2009年『今、ここからすべての場所へ』(筑摩書房)で第12回桑原武夫学芸賞を受賞。近著に『生命と偶有性』(新潮選書)、『東京藝大物語』(講談社)、『記憶の森を育てる 意識と人工知能』(集英社)ほか多数。

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