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Nonfiction

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ペルパタオ −我歩く、故に我あり 茂木健一郎

第9回 [2016年5月某日 コニャックの大地の感触]

更新日:2016/06/22

 旅というものは、必ずしも、理想通りに行くものではない。しかし、思うに任せない時間の進行の中で、私たちは、少しでも、目にする対象の「本質」に迫りたいと願うのではないだろうか。
 フランスのコニャック地方に旅をした。いわゆる「プレス・ツアー」。短い日程の中で、効率よく、見るべきところを回る予定だった。
 ところが、フランス国鉄が、ストライキに入っていた。大統領が導入しようとしていた新しい雇用法制に反対して、一部で烈しい抗議運動も起こっていたのである。
 それで、予定していた高速鉄道が使えなくなり、急遽、自動車で移動することになった。早朝に出発して、パリから、数時間。当然のことながら、現地に入る時間も、遅くなった。
 ランチを済ませ、撮影のために、コニャック地方の、ぶどう畑がよく見える場所まで走った。車が停まると、撮影班や同行の人たちは、それぞれ散らばって、ぶどうや周囲の風景を熱心に見ている。
 私は、少し離れたところを歩きながら、初めて踏みしめるコニャックの大地の感触を確かめていた。
「コニャック」という地名は、今では高級ブランデーの代名詞になっている。良いブランデーが出来るためには、ワインをつくる場合に比べて、糖度が控えめで、より酸味が強いぶどうが必要なのだという。
 蒸留された原酒は、樫の樽に詰められ、熟成の長い眠りにつく。最初は70%くらいあるアルコール分が、少しずつ飛んで、やがては40%程度になる。消えていってしまった分が、いわゆる「天使の取り分」である。
 それぞれ、少し癖のある原酒をブレンドして、世界の愛好家が目を輝かせる高級ブランデーの代名詞、コニャックができる。
 コニャック地方を覆っているのは、石灰分を多く含んだ「白亜」(チョーク)であり、水はけの良いこの土壌が、ブランデーの原料になるぶどうの栽培に適しているとされる。
 私たちを出迎えたブランデーの有名ブランドの「案内人」(アンバサダー)が、「最初にこの土地でぶどうを育てると良いと教えてくれたのは、オランダ人でした」と言って、笑った。彼女は、アメリカのジョージア州アトランタ出身。コニャックの土地と文化に魅せられ、フランス人と結婚し、この地に住んでいる。
 ぶどうの樹は、だいたい30年から35年で、生産量が減ってしまうので植え替えられるのだという。どれも、樹高が低く、日本の感覚で言えば、まるで、「盆栽」のようだ。
 ぶどうの樹皮は、ごつごつと、皺だらけ。この地方の風土に育まれ、時には耐えてきた、その年月の重みが凝縮しているかに見えた。
 私が、コニャックの大地を踏みしめて歩いたのは、せいぜい数分のことだったろう。撮影が終わり、人々が車に乗り込むのが見えた。私もまた、ドアの中の人となった。
 それから、しばらく道を走り、ホテルに着いた私たちは、それぞれの部屋に入ったが、前夜の睡眠不足と長距離の自動車移動の疲れから、外を歩くこともせずに、夕食までのつかの間の時間を、私は眠ってしまった。
 ディナー・パーティーは、ブランデーの有名ブランドの当主の家近くの蒸留所で行われた。コニャック地方の歴史、時には100年以上にも及ぶ原酒熟成の苦労と歓び。そのような話を聞いているうちに、夜も更けた。日付が変わろうかという頃に、ようやくお開きになった。
 次の日も、強行スケジュールだった。フランス国鉄のストライキは、まだ続いている。結局、次の目的地まで行くために、いったんはパリの飛行場まで自動車で戻り、そこから飛ぶこととなった。
 朝5時に出発だから、まだ陽も昇っていない。
 最後に見たコニャックの風景は、暗闇に沈む大地の気配のみだった。白亜の土と私は、ガラス窓に隔てられ、やがて、私という存在は、無意識の中に消えていった。
 空港で、ランチに近い朝食をとっている時に、ふと、たった数分歩いたコニャックの大地の感触がよみがえってきた。
 ほんの短い時間だったが、私は間違いなく何かにつながっていたのだ。心臓の鼓動にして、数百回のその時間の中で。
 コーヒーを口にした時、突然、かつてニュース映像で見た、ヨハネ・パウロ2世が、航空機を降りて大地に接吻する、そのイメージがフラッシュバックした。
 1978年の法皇就任から、2005年の死去まで、精力的に世界を駆け巡り、メッセージを発信し続けたヨハネ・パウロ2世。訪問先で、大地に接吻する、その姿を、私は、なぜか、パリの空港のラウンジの慌ただしい遅れた朝食の中で、思い出していた。
 歩くということ、土に足が着いているということには、何か、重大な意味があるのかもしれない。
「祝福」とさえ言える何かが。
 歩くということは、一歩ずつ、大地を祝福し、祝福されることであるから。
 だからこそ、ないがしろにはできない。そんな「本質」の容貌を、私は、つかの間の「移ろいの中の喪失」(ロスト・イン・トランスレーション)に寄り添いながら、思い出していた。

著者情報

茂木 健一郎 (もぎ けんいちろう)

1962年東京生まれ。東京大学大学院理学系研究科物理学専攻課程修了。理学博士。脳科学者。理化学研究所、ケンブリッジ大学を経てソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー。「クオリア」(感覚の質感)をキーワードに脳と心の関係を研究するとともに、評論、小説などにも取り組む。2005年『脳と仮想』(新潮社)で第4回小林秀雄賞を受賞。2009年『今、ここからすべての場所へ』(筑摩書房)で第12回桑原武夫学芸賞を受賞。近著に『生命と偶有性』(新潮選書)、『東京藝大物語』(講談社)、『記憶の森を育てる 意識と人工知能』(集英社)ほか多数。

  • 開高健ノンフィクション賞
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