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ペルパタオ −我歩く、故に我あり 茂木健一郎

第7回 [2016年某月某日 ピラミッドも歩いてこそ初めて到達する]

更新日:2016/05/25

 先日、生まれて初めてエジプトに行き、ピラミッドを見てきた。
 私を旅に誘い、案内してくれたNさんは、地方新聞の社長さんだが、大学に行く時に歴史学科に行ってエジプト学を専攻したかったというくらい、古代エジプトを愛していらっしゃる。
 今回は、Nさんの熱心なお誘いに、ついに旅立つことになったのである。
 考えてみると、ピラミッドというのは、認知的に見れば、不思議な存在だ。
 幾何学的には、「四角錐」である。それが、砂漠に立っている、ということも知っている。どれくらいの大きさかという知識もある。にもかかわらず、それを遠くにまで見に旅する、という行為に、どのような意味があるのか。
「確認旅行」とでも呼ぶべきものが、世の中にはある。ガイドに書いてあるそのままだと、現地で確認して喜ぶ。評判の料理が、その通りの味だと満足する。せっかくエジプトに行くのに、「確認旅行」では意味がない。
 以前、アメリカ人の旅行者が、「それは済ませた」と仲間内で言っているのを聞いたことがある。あたかも、リストがあって、行った分だけ、そこにチェックをしていくかのようだ。
 私は、ピラミッドを、「それを済ませた」のカテゴリーに分類するために、エジプトまで行くのではない。
 空港からホテルに向かう、初めて見るカイロの街。
 事前に、勉強のために見た英国の旅行ドキュメンタリーの中に、コメディアンがカイロの道を横断しようとして苦労するシーンがあった。信号も何もないところを、車が大量に走っている中、何とか横切ろうとして、危ない目に合う。
 あれは、編集上、わざとそのようにしているのだろうと思ったら、そうではなかった。
 車がカイロ市街を走っている間、ずっと、信号がない。交差する道路もなく、ひたすら、渋滞気味の道を走り続ける。ドキュメンタリーの中のコメディアンのように、地元の人が実際に自動車の間を縫うようにして渡っている。
 地元のガイドに尋ねる。
「信号はないのか?」
「ない」
「危なくないのか?」
「危ないが、慣れれば、だいじょうぶだ」
「子どもは、どうやって渡るのか?」
「大人が手を引いていくから、だいじょうぶだ」
「老人は、これでは、渡れないのではないのか?」
「エジプト人は心がやさしいから、老人の姿を見れば必ず止まる。だから、だいじょうぶだ」
 そんなことを言ったすぐ後で、道を渡ろうとして途中まで来ている老婆のすぐ前を、車がかなりのスピードでかすめていった。
 道路を歩くのもなかなかに命がけだ。
 カイロの街を走りながらじっくり観察すると、どうも、「歩く」ということにあまり向いていない都市のようだ。どんな裏通りにも、かなりの数の車が走っている。それでも、地元の子どもたちは元気で、そのような路上で遊んだりするのだそうだ。
「歩く」ということのあれこれで、その街への親しみ方も、変わってしまうような気がする。
 Nさんが、カイロ市街から1時間ほどかかる郊外のダハシュールにある、「屈折ピラミッド」と「赤ピラミッド」を見に連れていってくれた。
 近くに軍の基地があり、兵士たちがパトロールしている。
 それぞれのピラミッドが、お互いに、手の届くくらいの距離に見える。
 赤ピラミッドを意識の中に置きながら、屈折ピラミッドの回りを歩き始めた。4月とはいえ、エジプトは暑い。強い日差しの熱が、ピラミッドの影に入ると消えて、ひんやりと涼しい気分になった。
 砂地を踏みしめながら、徐々に変化していくピラミッドの姿を見上げていた。
 そして、「兆し」は、訪れた。
 突然、私の中に、ピラミッドが入って来たのである。これまで、概念でしかなかった四角錐が、まさにそこにある実在として、心の中にありありと像を結んだ。歩き、進み、一周する頃には、ピラミッドの実在は、疑いようのないものになった。
 私は、「到着」した。
 赤ピラミッドに移動し、内部に入った。45度の傾斜の狭い通路を、上半身をかがめて歩く。やがて到達した、王墓のあった「玄室」は、精緻でシンプルな天井の幾何学的形態が印象的だった。
 カイロ市内に戻り、クフ王のピラミッドに向かった。「驚くべきことに、中世にヨーロッパの教会建築に抜かれるまで、このピラミッドが、世界で最も高い建造物だったのです」とNさん。
 見上げながら歩いた。クフ王のピラミッドが私の中に入ってくるような気がした。
 らくだの間を歩いた。スフィンクスの横で足を進めた。歩くことで、エジプトの大地が、少しずつ、私の中に入ってくる、そんな気がした。
 リアリティは、見ることで得られるのではない。歩くことで立ち上がるのである。そんな簡単な真理に、エジプトでピラミッドを見るまで気づかなかったとは、なんということだろう。
 歩くことで、立ち上がるリアリティ。その原理は、気づいてみれば、ピラミッドの幾何学と同じくらい、揺るぎのないもののように思われる。歩いて、私たちは到達するのである。

著者情報

茂木 健一郎 (もぎ けんいちろう)

1962年東京生まれ。東京大学大学院理学系研究科物理学専攻課程修了。理学博士。脳科学者。理化学研究所、ケンブリッジ大学を経てソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー。「クオリア」(感覚の質感)をキーワードに脳と心の関係を研究するとともに、評論、小説などにも取り組む。2005年『脳と仮想』(新潮社)で第4回小林秀雄賞を受賞。2009年『今、ここからすべての場所へ』(筑摩書房)で第12回桑原武夫学芸賞を受賞。近著に『生命と偶有性』(新潮選書)、『東京藝大物語』(講談社)、『記憶の森を育てる 意識と人工知能』(集英社)ほか多数。

  • 開高健ノンフィクション賞
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