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Shueishagakugei

謹んで「熊本地震」災害のお見舞いを申し上げます。

熊本地震により甚大な被害が発生いたしました。
お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りいたしますとともに、
被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。
一日も早く平穏な日々が戻りますよう、そして復旧がなされますよう心よりお祈り申し上げます。

(株)集英社

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謹んで地震災害のお見舞いを
申し上げます。

東日本大震災により被災された皆様に、心からお見舞い申し上げます。
また、被災地等におきまして、救援や復興支援など様々な活動に全力を尽くしていらっしゃる方々に、深く敬意と感謝の意を表しますとともに、一日も早く復旧がなされますよう心よりお祈り申し上げます。

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Nonfiction

読み物

ペルパタオ −我歩く、故に我あり 茂木健一郎

第4回 [某月某日 曲がり角が必要なのだ]

更新日:2016/04/06

 歩くということは、私にとっては、周囲の風景が時々刻々と変わっていくということである。そこに意味がある。
 ちょっとした道の角を曲がるだけでも、その向こうに何が待っているのかな、と思う。ほんの数メートル進んだだけで風景が変わってしまう。これは、凄いことだと思う。
 そして、歩くということは、風に吹かれるということでもある。周囲の空気が止まり、淀んでいても、自ら動くだけで、風をつくることができるのだ。
 だから、私は、室内で歩くのは苦手だ。
 身体を鍛えようとして、スポーツジムに登録した時期があった。もう、10年以上前のことである。しばらく通ったが、プール以外は自分に向いていないな、と思っていつの間にか行かなくなった。
 特に苦手だったのが、いわゆる「ルームランナー」である。その上で、モニターを見たり、音楽を聞きながら歩いたり、走ったりしている人がいた。
 好奇心にかられて、私もしばらく歩き、走ってみたが、これは駄目だ、と諦めた。風景が変わらないし、風が吹かないのが、耐えられなかったのである。特に、風がないのがキツかったかもしれない。
 もっとも、これは、あくまでも私の個人的な嗜好性、趣味の問題なので、スポーツジムで走っている方は、それなりの歓びを見出しているのだと思う。実際、私の友人にも、ルームランナーで走ってトレーニングし、フルマラソンを完走しているやつがいる。
 堀江貴文という名の、実業家だが。
 彼は彼。私は私。
 というわけで、相変わらず、外を歩きつつ、ちょっとした曲がり角にくる度に、心をときめかせている。曲がり角の分だけ、世界が広がるような気がするのだ。
 一般に、脳は、一つの体験で学んだことを、他の領域にも応用できるという潜在能力を持っている。散歩をしながら、角を曲がるとさっと風景が変わるという体験を積み重ねることは、単に身体を鍛えるということ以上の「学習効果」を持つように思う。
 それはつまり、人生に対する「構え」のようなものである。歩いているうちに、曲がり角があり、その度に、風景が一変するという体験は、人生に恵みをもたらす。
 その効果は、メタファーとして言えば、「狭い空間」が急に「広い空間」に変質するということにでもなろうか。良く知った界隈は、狭く感じられる。ところが、その中に、未知の領域があると、広く感じられる。狭い、広いは、結局、未知数と好奇心のかけ算である。
 そもそも、人生の問題の一つは、ある気分に浸っているときは、それがずっと続くと思い込んでしまうことなのではないか。
 悲しい時には、人は、この悲しみがずっと続くと思い込んでしまうものである。これからの日々が、ずっとこんな気分だと感じてしまう。そのことで、人生が、感情の次元でずいぶんと狭くなってしまう。
 気分なんてすぐに次の「曲がり角」が来て、変わってしまうものだということを実際に知っている人は、心強い。その分、変化を期待する。そして、人生を、広々としたものと感じるのである。
 だから、散歩の際に曲がり角を経験していることは、それだけ、人生の曲がり角に対する心の構えを広くするということにつながっていくのだと思う。
 狭い空間の中をぐるぐる廻る。それが、人生の実相だとしても、向き合い方によって、ずいぶんと見え方は変わるものである。
 広いとは言えない空間を歩いて活用することの智慧については、以前、はあ、なるほど、と感心したことがある。
 南イタリアの小さな街の教会堂を訪れた時のことである。本堂も立派で印象的だったが、それよりも心に残ったのは、横に設けられた回廊であった。
 そこは、一辺がせいぜい10メートルくらいしかない正方形の回廊であったが、中庭があり、樹木が植えられ、光が差し、マリアさまやキリストの彫像があるその空間が、飽きないように工夫されていたのである。
 聞いたところによると、ありし日、修行僧は、その回廊をぐるぐると歩きながら、宗教的瞑想にふけっていたものなのだという。
 ああ、そういうのは、いいなあ、と感じた。修行僧になって、その回廊で、一年くらい修行してもいいな、と思った。
 壁に向かって座禅するよりも、おそらくは、私の本性に合っている。これも、その人次第だが。
 もっとも、修行僧の歩行が左回りだったのか、右回りだったのか、尋ねるのを忘れてしまったのが、思い返すと残念である。修行の機微に関わるような気がする。私自身は、なんとはなしに、左回りだったのではないかと思うのだが、事実はどうだったか。
 いずれにせよ、どちらかに統一していないと、修行僧どうしでぶつかってしまいそうだ。何しろ、瞑想にふけって、ぼんやりと歩いているわけだから。
 現代の日本に戻る。
 お年寄りが、足が弱ってしまって、あまり遠くには行けなくて、ご近所をゆっくりと歩いているのを時々見る。あれは、良いものだ。
 人生も、黄昏を迎えて、いろいろと思い出すこと、立ち戻っていくことなどあるのだろう。
 あのようなお年寄りのお姿は、回廊を行く修行僧にどこか似ているのではないかと思うことがある。

著者情報

茂木 健一郎 (もぎ けんいちろう)

1962年東京生まれ。東京大学大学院理学系研究科物理学専攻課程修了。理学博士。脳科学者。理化学研究所、ケンブリッジ大学を経てソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー。「クオリア」(感覚の質感)をキーワードに脳と心の関係を研究するとともに、評論、小説などにも取り組む。2005年『脳と仮想』(新潮社)で第4回小林秀雄賞を受賞。2009年『今、ここからすべての場所へ』(筑摩書房)で第12回桑原武夫学芸賞を受賞。近著に『生命と偶有性』(新潮選書)、『東京藝大物語』(講談社)、『記憶の森を育てる 意識と人工知能』(集英社)ほか多数。

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