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Nonfiction

読み物

ペルパタオ −我歩く、故に我あり 茂木健一郎

第1回 [2011年正月 東京駅から3時間]

更新日:2016/02/24

 生まれて最初に「二足歩行」をした日のことは、よく覚えていない。
 親に聞けば、何らかの答えが返ってくるだろうが、記憶もずいぶん薄れているだろう。いずれにせよ、真相は白い霧の中だ。
 しかし、生涯で初めて「歩く」ことに「覚醒」した日のことは、鮮明に覚えている。
 2011年の正月。私は、東京駅にいた。突然、そこから、次の目的地まで、歩いていってしまおうと思い立った。
 そして、実際に、歩き始めた。
 約3時間後、私は目標地点に到達した。途中、何度か、特に車の通りが多い幹線道路を横切るとき、めげそうになったが、達成の爽快感が、すべてを流し、消してくれた。
 あの日、私は、生涯で初めてそれと意識して「歩いた」と思う。正確に言えば、「歩く」ということに覚醒したのだと思う。
 一体、私の中で、なにが起こったのだろうか。
 ふりかえれば、その前年の歳末、私の体調は最悪だった。仕事が忙しく、移動でタクシーに乗ると、すぐに締め切りが近い原稿を書き始め、「タクシー文豪」と友人に揶揄(やゆ)された。いろいろとストレスがたまっていて、今でも考えるとびっくりするのだが、あるとき血圧を測ってみたら、180を超えていた。
 研究室のメンバーと歳末の会食をしている時にも、お腹が痛くなって何度かトイレに立った。個室に座りながら、これはなんだかダメかもしれない、とため息をついた。
 正月に、突然歩き出したのは、一つの本能の警告だったのかもしれない。生命が、悲鳴を上げ、身体の正当な扱いを要求していたのだろう。
 静養をとるのではなく、動くことでコンディションを整えようとするのは、私らしいと言えば、いかにも私らしい。実際、私は、風邪の治りかけのときに走って、一気に身体を戻してしまうことがある。
 以来、私は歩き続けている。東京都内の仕事から仕事への移動は、時間があれば歩く。東京駅から渋谷方面への約1時間のルートは、何度歩いたかわからない。地方に行っても、歩く。2時間、3時間は平気で歩く。
 おかげで、体調もすっかり良くなり、血圧も正常になり、本能の警告に応えた果実を、私は手にしたように思う。
 それだけではない。
 「歩く」ことは、私の人生観を変えた。2011年の正月に歩いた、あの日から、世界はすっかり違った場所として、私の目に映っている。
 何よりも、空間の感覚が変わったように思う。
 地下鉄やJRを使って経験する東京と、歩いて感じる東京は、全く別の都市だった。歩く前、私は、東京を知らなかった。
 たとえば、地下鉄に乗る。ある駅から地下に潜り、暗闇の中を疾走して、突然、別の地点に浮上する。いきなり周囲の雑踏が目に入ってくる。それは、覚醒から睡眠を経て再び覚醒する、あの馴染み深い経験に似ている。
 地下鉄による移動から見えてくる東京は、「点」の集まりである。一つひとつの点の周囲に、明かりに照らされたエリアが広がる。しかし、点と点はつながらない。点と点の間は、暗闇の中に包まれている。
 車に乗って移動したら、「点」が「線」につながるではないかと思うかもしれない。しかし、車窓のガラスは、厚い遮断物となる。都市を、肌感覚でつかむことができないのだ。
 しかも、車で通る道は、限られている。裏通りや、その向こうの人々の生活の息遣いは見えない。結局、都市の一部分しか見ることができないのだ。
 歩くことで、そのすべてが変わった。
 歩く時は、できるだけ、車の通りの少ない道を歩く。時には、こんなところに入れるのか、というくらいの細い道に入っていくこともある。
 思い立って、ちょっとした脇道に逸れることもある。意外な発見は、数えきれないくらいある。偶然の出会いを避けて歩くのが、難しいというくらいである。
 時代を経た、趣のある店。ちょっと変わった建物。ふしぎな看板。その上を猫が歩くのにぴったりの塀。大きな樹。ひっそりと咲く花。こことここがつながっているのかという、東京という都市に関する、位相幾何学的(トポロジカル)な発見!
 人間の脳の中には、海馬(かいば)や、大脳新皮質の一部に、場所や空間の情報をつかさどる回路がある。歩くことで、場所細胞のネットワークがつながり、更新され、密度が濃くなっていく。歩くことで、脳の中で今までつながらなかったものがつながり、流れなかった場所に血が通う。自分の内的体験と、外の空間の幾何学が、密接に結びついていく。
 歩いているうちに、自分自身が更新される。そして、生命の泉もまた、更新されるのだ。
 2011年の正月、私は突然歩き出した。
 そして、その少しあとで、あの大震災が起こった。
 大震災の日も、すべての交通機関が止まった東京の街を、私は歩いた。歩きながら、人々の無事を祈り、自分の命の未来を考えた。
 以来、歩くことが、生きることの根本であるという思いが消えない。
 われ歩く、ゆえにわれあり。
 今ここの、大地の上を歩く歓びを、すべての人と分かち合いたい。

著者情報

茂木 健一郎 (もぎ けんいちろう)

1962年東京生まれ。東京大学大学院理学系研究科物理学専攻課程修了。理学博士。脳科学者。理化学研究所、ケンブリッジ大学を経てソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー。「クオリア」(感覚の質感)をキーワードに脳と心の関係を研究するとともに、評論、小説などにも取り組む。2005年『脳と仮想』(新潮社)で第4回小林秀雄賞を受賞。2009年『今、ここからすべての場所へ』(筑摩書房)で第12回桑原武夫学芸賞を受賞。近著に『生命と偶有性』(新潮選書)、『東京藝大物語』(講談社)、『記憶の森を育てる 意識と人工知能』(集英社)ほか多数。

  • 開高健ノンフィクション賞
  • 情報・知識&オピニオン imidas
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