知と創意のエンタテイメント 集英社 学芸編集部

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Nonfiction

読み物

名画の中で働く人々

第11回 警官

ギュスターヴ・ドレ 『的中(どんぴしゃり)』
ウィリアム・パウエル・フィリス 『鉄道駅』

更新日:2021/08/25

 映画や小説の中では警官が主人公、ないし重要な役どころで登場する例がかなり多いが、絵画となると別だ。なぜかこの職業はさして画家の興味を惹かず、鑑賞者の絵心にも訴えず、発注者もほとんどいなかった。
 社会の安全になくてはならぬ存在でありながら美術界では影が薄く、むしろ新聞雑誌の諷刺画で揶揄(やゆ)され批判されることの多い警官。あまりに不公平なので、今回は警官のお手柄シーンを描いた数少ない作品のうち二点を取り上げてみたい。舞台はどちらもヴィクトリア朝時代のロンドン。爆音たてて産業革命が進み、世界の海を支配したイギリスだが、国内では光と闇の著しい落差から軋み音も鳴りやまなかった。
 そこへフランスから人気画家ギュスターヴ・ドレ(1832-1883)がやって来る。一八六九年のことだ。ロンドンにできたドレ画廊(彼の作品のみを扱う)オープンに出席後、ついでに初めてのロンドンを少し見物して帰国の予定だったが、まもなく普仏戦争でパリが大混乱に陥っているとの報が届き、そのまま高級ホテルの一室をアトリエにして四年を過ごした。その間、友人のイギリス人ジャーナリストの案内でロンドンをくまなく歩き、当時の風俗を一八〇点もの版画に残した(『ロンドン巡礼』)。
 ドレはもともと諷刺画は性に合わず、『聖書』や『神曲』といった物語に挿絵を提供して盛名を馳せた版画家だ。隣国の現状を描写するに際しても、政治批判や皮肉、善悪の判定、また過度な同情や美化など、色眼鏡をかけることは極力避け、できる限りありのままに人間の営みを見るものに伝えた。結果的にそれが時代を浮き上がらせ、秀逸な短編小説を読んだような感慨さえ与えることとなった。

 ドレの「巡礼」先は、富裕な貴人が集うオペラ座から悪名高いニューゲート監獄、中・上流階級の住むウェストエンドから最貧民の吹き溜まりイーストエンドまでと幅広い。イーストエンドでもとりわけ危険なホワイトチャペル地区では、夜の帳(とばり)を果敢に分け入ってスケッチしている。
 警官登場の「的中(どんぴしゃり)」を見よう。


The Bull's-Eye, from 'London, a Pilgrimage', written by William Blanchard Jerrold (1826-84) & engraved by Adolphe Francois Pannemaker (b.1822) pub. 1872 (engraving), Gustave Dore
©akg-images/アフロ

 オリジナル・タイトル「The bull's eye」は、雄牛の目、雄牛の急所、転じて標的の中心部の意(「hit the bull's-eye = 的に当てる」のように使う)。bullには俗語で「ポリ公」といった意味もあるので、ダブルミーニングかもしれない。
 いずれにせよこのシーンは、三人の警官が当たりを付けた場所(ここではホワイトチャペル)へ行き、路上にたむろしている男の顔を順次照らしていって犯人を見つけた瞬間、つまり的の中心点を射抜いた「どんぴしゃり」の瞬間だ。
 ロンドンは夏が過ぎるともう寒い。警官はコートを着ているが、路上で身を寄せあう宿無しの男女も子どももヨレヨレの薄着で、しかも裸足だ。警官の掲げたカンテラ(ブリキ製の手提げ石油ランプ)のぎらつく光に照らされた髭の男は、立て膝で座ったまま逃走の気力すらなさそうに見える。
 周りの人間も一見無反応で、身じろぎもしない。だが視線は鋭く、何を考えているのかわからない。警官が三人もいては勝ち目がないと今は傍観しているだけで、別の仲間が集まってくれば反撃もありえるだろう。犯罪者と警官の追いかけっこには慣れた地域なのに、窓から住人らが覗いている。存外この捕り物劇の犯人は凶悪犯かもしれない。
 警官も緊張している。「的中」の凍りついた一瞬が去った時、果たしてどんな動きが起こるのか。気力のなさそうな犯人が飛び上がって、脱兎のごとく逃げ出さないとも限らない。凶器を隠し持っているかもしれないし、周りの男たちが加勢しないという保証もない。警官の仕事はこれからだ。今はまだ犯人を見つけただけ。手錠をかけ、署へ連行するまでは終わらない。ここはロンドンで最も油断できない場所なのだ。
 イーストエンドには一五〇年以上も昔から最貧民がひしめいていたことは、ホガースの『ジン横丁』(拙著『怖い絵』参照)でよく知られている。当時の新住人は、故郷で食い詰めて都会に活路を求めた人々や、「第二次囲い込み」で土地を追われた農民、また宗教問題でイギリスへ逃げ込んだユダヤ人などだった。
 その頃と比べて産業革命がいっそう進んだ今、住環境は悪くなるばかりだ。ユダヤ人やインド人だけでなく、英語の読み書きのできないアラブ系の不法移民まで激増し、ホワイトチャペル地区だけでも人口が最盛期で八万人と言われた。安かろう悪かろうのジンは再び大流行し、アヘンも加わり、娼婦の数と犯罪件数もうなぎ上りで、暴力沙汰や強盗は日常茶飯事だった。  
 だがイーストエンドには仕事もたくさんあった(たとえ賃金は最低で、劣悪な衛生状態での重労働がほとんどであっても)。猛烈な臭気と血と獣脂の中で、今では考えられないほど劣悪な衛生状態の皮なめし工場、「泥ひばり」と呼ばれたドブさらい、痩せた少年が酷使された煙突掃除人、亜リン酸で肉体を蝕(むしば)まれるマッチ工場の工員やマッチ売りの少女、尿から精製するミョウバン工場など、生きるのに必死な人々が使い捨ての労働力として、いいように搾取される場でもあった。
 この地区の飲み水は、動物の死骸やゴミが捨てられる川から取水されていた。さまざまな病気が蔓延し、肉体も心も崩壊する所以(ゆえん)だ。『ジン横丁』時代にも増して、手抜き工事で建物もよく崩壊した。いったんここに嵌(はま)れば、とてものことに長生きは望めない。子どもの半数以上が、五歳になる前に死んだというから凄まじい。
 一方で、犯罪者の隠れ場としては都合よかった。人口密度の高さ、入り組んだ路地、言葉の通じなさ、互いへの無関心、そうしたことが悪に有利に働いた。警官の捜査も困難を極め、こんな地区を担当させられる我が身の不運を呪ったであろう。だからこそドレのタイトル、どんぴしゃりが活きる。犯人を発見しただけでもお手柄だったのだ。
 『ロンドン巡礼』発表からおよそ十五年後、ホワイトチャペルとその近辺で猟奇的な連続娼婦殺人事件が起こり、犯人の切り裂きジャックは膨大な証拠を残しながらもついに逃げおおせた。絵入り新聞には、警官の無能さを非難嘲笑する諷刺画が連日描かれ続けた。この職業の辛いところだ。

 ドレ作品より十年ほど前、ディケンズの友人でもあったイギリス人画家ウィリアム・パウエル・フィリス(1819-1909)が『鉄道駅』を発表し、大評判を巻き起こした。


The train station.(1862), William Powel Frith ©Artothek/アフロ

 物語がぎっしりつまったイギリス人好みの「絵を読む」作品だ。ジェリコーの『メデューズ号の筏』と同じ方式(単独一点の巡回展)で何万人もの来場者を集めたし、後には活人画(役者が絵の登場人物となり、舞台で静止のポーズをとる)にもなった。
 ここはロンドンの西の玄関、パディントン駅。観光地バースを経由して、港湾都市ブリストルと結ばれている。沿線にはウィンザー城やイートン校、富裕層向けお屋敷街などがあって、客筋はだいたい中・上流層で占められる。ヴィクトリア朝時代の陽光さんさんと降り注ぐ表の顔であり、ドレの描いたホワイトチャペルの住人には縁のない場所であろう。
 細長い画面に、当時の建築の粋を集めて建造された駅構内が描かれる。天井はまるで巨大鯨の湾曲したあばら骨のようだ。ホームには八十人もの人々。もちろんそれぞれにそれぞれの人生があり、今日のこの行動に至っているわけで、それが文章ではなく絵で巧みに表現されているのが観て楽しいところ。
 画面左は駅の出入り口で、微かに空も見える。欧米語は左から右へと書くため、横長の絵画を見る視線も自然に左から右へと進むことを画家は計算済みだ。どこにどんな人がいるか、ヒントから――ウォーリーを探すように――見つけてほしい。

① 走り回る新聞少年
② 列車に遅れそうな家族(父母と二人の子)が、台車を押すポーター(黒い帽子に緑色の制服 。旅客の荷物を山盛りに載せている)に行く手を阻まれ、大慌て。
③ 寄宿学校へ行く少年が、母にキスして名残を惜しむ。
④ 御者と賃金のことで揉めている外国人風の男(毛皮付きコート、肩から斜めにかけた鞄)。言葉が通じないようだ。
⑤ 初めてパディントン駅に連れてこられた幼い少年が、好奇心いっぱいに目を輝かせて天井を振り仰ぐ(将来は建築家?)。
⑥ 古典的三美神像を彷彿とさせるポーズの、華やかな若い三人の娘。一人は花嫁でこれからは別の土地で暮らすことになる。隣で妹が寂しさのあまり泣きだし、小さな弟がなだめている。
⑦ 駅員が列車の屋根に、大型の荷物を載せている。雨よけのカバーもかぶせているので、行先の天気はよろしくなさそうだ。

 他にも小さなドラマがそこここで起こっている。想像を駆使して楽しんでほしい。
 さて、警官だ。ここでは刑事(刑事事件を扱う警察官の総称)。制服を着ていなくとも、誰もがすぐ見つけられるだろう。画面右端、非常に分かりやすく、且つ目立つように描かれている。
 一等車に乗り込もうと足置き台に片足を置いた男は、インヴァネスコート(長いケープ付き外套)にマフラー、ディアストーカーハットに山羊革手袋と、どこか寒い国を目指しているような服装だ。むんずと肩を掴まれ、ふりかえると、逮捕令状を突き付けられる。みるみる蒼ざめる顔。持っていた鞄もどさりとホームに落ちる。駅員が驚いて棒立ちになる。すでに車輛に乗り込んでいた女性が驚いた表情を見せる(犯人の同伴者か?)
 二人の刑事はシルクハットをかぶっている。つまり変装して雑踏に紛れ込み、彼を待ち受けていたのだろう。安心しているところに不意打ちをくらせたわけだ。
 逮捕令状をもつ刑事の背後に立つ同僚は、うっすら笑みを浮かべて手錠を用意している。この悪党め、ブリストルから船で国外逃亡を企てたな、そうはいかないぞ、ロンドン警視庁をなめるなよ、という顔つきだ。
 本作の巡回展にはきっと警察関係者もたくさん見に来て、溜飲を下げたに違いない。

◆ギュスターヴ・ドレ(1832-1883)  フランスの版画家、挿絵画家、彫刻家。挿絵画家としてダンテの『神曲』(1861-1868)、エドガー・アラン・ポー『大鴉』(1884)、他にバルザックやミルトン、セルバンテス作品を手掛けるなど名声を博した。
◆ウィリアム・パウエル・フィリス(1819-1909) イギリス、ヴィクトリア期に活躍した画家。群衆を多面的な構成で描く作風を得意とし、ダービーに集まった人々を描いた『ダービー開催日』(1858)で名声を決定的なものにした。代表作に『ラムズゲイト・サンズ』(1854)、『ウェールズ公の結婚式』(1865)などがある。

著者情報

©文藝春秋/三宅史郎

中野京子(なかの きょうこ)

北海道生まれ。ドイツ文学者・作家。西洋の歴史やオペラ、美術など芸術の幅広い知識を生かして雑誌や新聞などの連載やテレビ出演など幅広く活動。2007年発表の『怖い絵』シリーズは大ヒットを記録し、シリーズ刊行10周年を記念して、2017年には自身が特別監修者を務めた『怖い絵』展も開催された。主な著書に『怖い絵』シリーズ(角川文庫)、『名画の謎』シリーズ(文春文庫)。『美貌のひと』(PHP新書)、『画家とモデル』(新潮社)、最新刊に『運命の絵 なぜままならない』(文藝春秋)、『プロイセン王家 12の物語』(光文社新書)など。著者ブログは『花つむひとの部屋』https://blog.goo.ne.jp/hanatumi2006

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