知と創意のエンタテイメント 集英社 学芸編集部

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Nonfiction

読み物

名画の中で働く人々

第5回  傭兵

ハンス・ルドルフ・マヌエル・ドイチュ『スイス人傭兵』
カール・フォン・ピロティ『ヴァレンシュタインの暗殺』

更新日:2021/02/24

 世界最古の職業は、男なら傭兵、女なら娼婦だという。どちらも需要が多く、元手要らずと思われていたからだろうか。
 傭兵の定義は、「金銭的報酬を条件に、契約に基づいて軍務に服する兵」(『新明解百科語辞典』)。つまり自らの所属する国や信条などと関係なく、もっぱら個人的利益のため戦争の一部に加わる兵士のことだ。正規軍の兵士も給金はもらうが意味合いは全く違い、傭兵は報酬の良い側、あるいは勝ち目がありそうな側に一時的に所属して戦う。したがって昨日までの敵軍に転属する、ということも可能で、実際そうした例もよくあった。
 古来、戦争のない時代はない。統治者は正規軍で足りなくなると傭兵を雇い、あるいは征服した地の男たちを(いわば奴隷のように)自軍に組み入れて補充した。ヨーロッパ各地で始終戦争が起こっていた時代には兵士募集係が各地を回り、何も知らない若者を――甘言を弄して騙したり、時に暴力をふるったり、さらったりして――軍に引き入れた。
 兵士不足は波状的にやってきた。戦争が多発した時代は言わずもがなだが、逆に国内がある程度安定し、身分も職業も分化して豊かになった国では軍に入りたがる者が激減する(先進国が少子化になるようなもの)。そこで極貧国出身の傭兵の出番だ。彼らは募集兵や奴隷兵は無論のこと、正規兵に比べても格段に戦士としての能力が高かった。他に仕事がないのだから真剣だ。命がかかっているのでなおさらだ。自分を高く売るべく、生き延びるべく、常にスキルを磨いていたのだから。
 中でもスイス傭兵がその勇猛さで歴史に名をとどろかせている。寒冷な山岳地で農業には不向き、産業も未発達という小国は、傭兵供給国にならざるを得なかった。屈強な男たちは自前の武器を手に出稼ぎをしていたが、十五世紀ころからは個人というより国家的事業として傭兵連隊を組み、各国の戦地へ足音高く行進した。「血の輸出」、また「金のないところスイス兵無し」などと揶揄された。
 ちなみに『アルプスの少女ハイジ』(ヨハンナ・シュピリ作)で、ハイジの祖父も元傭兵という設定である。

 十六世紀半ばに描かれた『スイス傭兵』を見てみよう。同時代のスイス人画家ハンス・ルドルフ・マヌエル・ドイチュ(1525~1571)の手によると考えられている。


Schweizer Reisläufer(1553)Hans Rudolf Manuel Deutsch(1525-1571)

 この絵は当時のスイス傭兵の実態を物語っている。
 まず画面上部の吹き出しに、「幸運は我にあり。たとえ正義が我にあろうとなかろうと」と皮肉な記載があり、左の樹上からもドラゴン(悪の象徴)が火を噴いている。いささか意地悪な見方ともとれるが、反面、主人公の傭兵は「我関せず焉(えん)」とばかり堂々たる姿だ。
 衣装はすこぶるつきに派手である。こんな格好でほんとうに戦場を駆けまわったのかと疑いたくなるが、そのとおりだった。そしてまたこうした極端な着飾りっぷりが、諸国の雇用主から顰蹙(ひんしゅく)を買っていたのも事実だ。だが誰におしゃれを止められようか。自前の服だし、命をかけて戦うのだから、華やかに装って何が悪い。それに目立つことの効果もある。武田信玄軍の斬り込み隊たる騎馬隊「赤備え」と同じで、一目で無敵のスイス傭兵とわかれば相手は怯む。
 スイス傭兵が発信源とされるファッション・アイテムが二つある。一つはコドピース(股間用プロテクター)。もともとは戦闘時の防具なのに、戦に行きもしない王侯貴族までが真似するようになり、絹製やら毛皮製の特大コドピースをひけらかした。なんと二世紀にもわたって。
 もう一つはスラッシュ。上着の切れ込みだ。まだ伸縮性のある布地が開発されていなかったので、剣をふりまわすにも足を高く上げるにも自在に動かしにくかった。それならいっそのこと最初からハサミで切れ目を入れ、中の下着を出してみようと試したところ、便利なばかりか見映えもいいというので他国の傭兵ばかりか下は農民から上は君主まで、しかも男女問わず、ヨーロッパ中が右へ倣えとなった次第。

 絵にもどろう。
 赤い平帽子をかぶり、左右で色も模様も違う奇抜な衣服のこのスイス傭兵は、なぜかコドピースだけはあまり目立たない。スラッシュも、恐らく指摘されなければ現代人は気づきにくいと思うが、一番わかりやすいのは黄色い膨らんだ袖だ。縦に長く切れ込みが入っている。よく見ると胴体及び腿の部分にもある。ブルー系の縦縞模様が使われている右半身にも、短い切れ込みを何カ所かに入れ、その下の黄色い布地を引っ張り出してふんわりさせている。
 足元には、ご主人を見上げる忠犬。ペットを戦場へ連れてゆけるのも、世話ができたのも、自由な傭兵という立場だからだ。こちらも傭兵隊、敵も傭兵隊という戦闘の場合は隊長同士で戦闘時間が決められ、朝や夜間は休憩だった。互いにさほど損得勘定がなく、宗教戦争でもない場合はどちらも殲滅戦(せんめつせん)を望まず、無駄な殺し合いはやめて適当なところで勝ち負けを決め、終了にすることが多かった。ペットを愛玩する暇も十分あったのだ。
 歩兵である画中の主人公が持つ武器は三種。両の腰にそれぞれ長剣と短剣、そして左手には長い槍を握る。この槍はハルベルト(斧槍)と呼ばれ、文字通り斧と槍を合わせた破壊力の高い武器だ。十三世紀にスイスで生まれ、改良が重ねられて十六世紀まで、つまり銃が主力武器となるまで、各戦場で大活躍した。画面上部の吹き出しの先がくるくる丸まって、ハルベルトの先端部分が見えにくいが、左手のすぐ下、片側に鉤爪、反対側に斧が取り付けられている。本作の描写では重量感がないが、実際にはかなり重く、あやつるのはやさしくなかったろう。
 こうした武器にせよ衣服にせよ、そうとうお金のかかった出で立ちだが、それができるほど十分な収入があったのだ。報酬もさることながら、当時の戦争では勝利者は敗者から略奪し放題で、そちらのほうが実入りは大きかった。傭兵が憎まれる所以(ゆえん)である。
 一仕事終えた傭兵がポケットを膨らませて帰郷する。さまざまな国のさまざまな貨幣を持ち帰ったはいいが、そのままでは故郷で使えない。両替商で替えてもらう。そこからスイスでは銀行業が盛んになり、今の金融国家につながったというのだから面白い。
 極貧国→傭兵→各国貨幣→銀行→先進国化→永世中立国という流れである。こうしてスイスが豊かになる過程で傭兵志望者も減っていった。そして十九世紀後半には傭兵輸出は憲法で禁止され、二十世紀前半には外国軍への参加自体も禁止されて今に至る。
 スイス傭兵が大量虐殺された例もあげておこう。フランス革命進行中の一七九二年、主のいないテュイルリー宮殿を守っていたのは、ブルボン家と傭兵契約を結んでいた千人近いスイス衛兵隊だった(ここでは長期雇用だったので、フランスの軍服着用)。革命軍に襲われ、勇敢に戦ったものの多勢に無勢、王家への激しい憎悪を転嫁されて必要以上に残忍に殺され、生き残ったのは百人ほどだったという。
 さらに別の例。スイスは現在傭兵禁止だが、唯一残っている傭兵がいる。バチカンのスイス衛兵だ。戦闘ではなくローマ教皇警備の役目だからと、特別に許可されている。彼らもずいぶん派手な服を着用しているが、ミケランジェロのデザインと言われている。

 傭兵には一匹狼的なイメージがあるが、スイス傭兵がそうだったように、たいていはあらかじめどこかの隊に所属した。居心地がよければ同じ隊に居続けるし、嫌なら契約終了後に別の隊へ移る。移るに際しては隊員同士の口コミが頼りらしい。武具や馬などを貸してくれるか、前金はもらえるか、何より、その隊長の戦勝率が大事な決め手になる。隊の規模は率いる隊長によって三、四人程度から万単位までさまざまだった。
 多数の都市国家に分かれ、下克上だったルネサンス期のイタリアは、有名な傭兵隊長の宝庫だった。貧農の出から傭兵隊長を経てミラノ公国の君主にまで成り上がったフランチェスコ・スフォルツァや、貴族の庶子から傭兵隊長、やがてウルビーノ公国の君主になったフェデリコ・ダ・モンテフェルトロなど。彼らのような隊長の下で戦えば、一国の大臣になる可能性まで掴んだことになる。
 ウルビーノ公モンテフェルトロは、ピエロ・デラ・フランチェスカ(1415頃~1492)による肖像画が残っている。


Doppio ritratto dei duchi di Urbino(1467-1472):Piero della Francesca
©Bridgeman Images/アフロ

 馬上槍試合で右目を失い、左目だけで右方向を見るのに鼻根が邪魔だと、自分でそれを削ったというウルビーノ公の特異で武人的風貌は一度見たら忘れがたい。
 顔に似合わず(?)、彼はウルビーノを芸術都市にし、善政をしいたことでも知られる(彼についての詳細は、拙著『画家とモデル』参照)。

 最後にもう一人、歴史に残る傭兵隊長アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタインに触れておこう。三十年戦争時代、神聖ローマ帝国皇帝フェルディナント二世に仕え、卓越した政治力と大きな野望に身を引き裂かれた彼の名は、シラーの戯曲にもなったので知る人は多かろう。
 ヴァレンシュタインはボヘミアに生まれ、大学で教育を受けたあと皇帝の軍人となった。まもなく三十年戦争の発端となるボヘミア反乱が起こり、これを見事な手腕で鎮圧したことからとんとん拍子に出世(最終的には公爵にまでなる)。
 三十年戦争の主力は傭兵たちだった。ヴァレンシュタインはボヘミア反乱の際に多くの土地や財産を没収して相当の資産家になっていたから、それを元手に自軍を作り、戦争を請け負う許可をフェルディナント二世に申し入れて許可された。そしてたちまち三万の傭兵を集めてしまう。
 ヴァレンシュタインの立場は何とも奇妙なものだ。皇帝の臣下であり、傭兵隊長であり、皇帝軍総司令官でもある。ついでに言えば、アイディアマンでもあった。戦闘において彼がまずやったことは、傭兵らに対する略奪行為の禁止。その代わり、戦場となる各駐屯地の町や都市の長と交渉し、略奪はさせないかわり略奪免除税を寄こせと強要したのだ。相手はその税がどんなに高くとも、放火や略奪、強姦といった惨劇よりはましなので、しぶしぶながら言うことを聞き、ヴァレンシュタイン隊は破竹の勢いで儲け続け、勝ち続けた。
 彼は全ヨーロッパ統一を夢みていた、と言われる。いや、単なる強欲な権力者と言う者もいる。夢があったにせよ欲があったにせよ、それが最終的にどんな形かわからぬまま、諸侯の妬みと皇帝の疑心暗鬼を呼び起こし、暗殺により五十歳でその数奇な生涯を終えた。
 彼の死から二世紀ほど経ち、ドイツの歴史画家カール・フォン・ピロティ(1826~1886)が『ヴァレンシュタインの暗殺』を描いた。


The Death of Wallenstein(1855) Carl von Piloty
©Artothek/アフロ

 寝室にいるところを数人の刺客(真犯人はわかっていない)に襲われ絶命した、との史実に基づいている。ピロティが選んだのは、暗殺直後に訪れた臣下(もしかすると彼が暗殺計画者の一人だったかもしれない)が帽子を脱ぎ、複雑な表情で遺骸を見下ろすシーンだ。
 戦いに明け暮れ、激烈で敵の多かったヴァレンシュタインは眠っているように静かだ。まるで今ようやく平穏を手に入れたかのようだ。

◆ハンス・ルドルフ・マヌエル・ドイチュ(1525~1571)スイスの芸術家。百科事典のための木版画などが知られている。
◆カール・フォン・ピロティ(1826~1886)ドイツの画家。ミュンヘン美術院で学び、版画の工房の運営の後、1856年からはミュンヘン美術院の教授に任じられ
多くの画家を育てた。代表作に「モナキア」がある。

著者情報

©文藝春秋/三宅史郎

中野京子(なかの きょうこ)

北海道生まれ。ドイツ文学者・作家。西洋の歴史やオペラ、美術など芸術の幅広い知識を生かして雑誌や新聞などの連載やテレビ出演など幅広く活動。2007年発表の『怖い絵』シリーズは大ヒットを記録し、シリーズ刊行10周年を記念して、2017年には自身が特別監修者を務めた「怖い絵」展も開催された。主な著書に『怖い絵』シリーズ(角川文庫)、「名画の謎」シリーズ(文春文庫)。『美貌のひと』(PHP新書)、『画家とモデル』(新潮社)、最新刊に『運命の絵 なぜままならない』(文藝春秋)など。著者ブログは「花つむひとの部屋」https://blog.goo.ne.jp/hanatumi2006

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令和2年7月豪雨被災お見舞い

このたび令和2年7月豪雨により各地で被災された皆様に、心からお見舞い申し上げます。また、被災地等におきまして、避難生活や復興支援など様々な活動に 全力を尽くしていらっしゃる方々に、深く謝意と敬意を表します。一日も早く 復旧 がなされますよう衷心よりお祈り申し上げます。

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