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Nonfiction

読み物

名画の中で働く人々

第3回
ハンス・ホルバイン『トーマス・モア』『トーマス・クロムウェル』

更新日:2020/12/16

 以前、数人のランチタイムでこんな話が出た、曰く、弟が占い師から八十歳で暗殺されると言われた、と。みな驚き、口々に、弟さんは政治家なの? と問い、ただのサラリーマン、という返事に爆笑。
 ──暗殺と政治家は切り離せない。なにしろ暗殺という言葉自体、新明解国語辞典によれば「政治上、思想上の対立から(無防備の)反対派の人を、すきを狙って殺すこと」と定義されている。
 暗殺ならずとも、政治家は軍人に次いで殺害される率の高い職業ではあるまいか。世界史の教科書でおなじみのシーザーをはじめとして、第二次世界大戦以降も、ガンディー、マサリク、浅沼稲次郎、ケネディ兄弟、サダトなど数え切れない。他にも事故死や自殺を装った殺害もあったろう。
ましてや絶対主義王政初期の荒々しい時代なら、王が政治家の生殺与奪を握っていたのだから密かに殺すまでもなかった。

 絶対君主の一つの型、暴君の代名詞として、イングランドのテューダー王朝二代目ヘンリー八世がよく挙げられる。十八歳で王冠をかぶったこの王は、身長百九十センチ、体重百キロという偉丈夫で、教養もあり政治力もあったが、冷酷で自分に逆らう者に容赦しなかった。
 時代的にまだ中世を引きずっていたとはいえ、六回の結婚で二人の王妃を斬首し二人を離縁した王など、他のヨーロッパ諸王国に類を見ない。王妃に対してさえそうなのだから、自分に反対した臣下など許すはずもなかった。スタートは戴冠翌年。父王の重臣二人を処刑。以降、その手法を得意技とする。
 ハンス・ホルバイン(1497~1543)が描いた、トーマス・モアの肖像画を見よう。ヘンリー八世に仕えた政治家だ。敬虔なカトリックであり、人文主義の思想家(当時のイングランド社会批判の著『ユートピア』の作者)で、且つ有能な法律家でもあった彼は、官僚最高位の大法官にまで上りつめることになる。


Portrait of Sir Thomas More(1527)Hans Holbein
Alamy/AFLO

 このとき齢五十のモアは、重厚な深緑のカーテンをバックに、豪華な毛皮の襟巻付きガウンから赤いビロードの上衣をのぞかせ、黒いパレットをかぶる。爛々たる眼光、目の下の隈と皺、鋭く尖る鼻梁、大きな引き締まった口、その周りには白いものが交じった無精ヒゲ、がっしりした顎、まさに信念の人というイメージに合致する。 
 首(というか肩)に掛けた、いかにも重たげな鎖はリバリー・カラー、ないしオフィス・チェーンと呼ばれ、高位公職者であることを示す、いわば勲章。各種あるが、モアが誇らしげに掛けているこれはS字頸飾と呼ばれ、鎖部分にSの文字の連なりが見える。先にはチューダー・ローズを象(かたど)ったメダルが下がり、その両側に城門の禍々しい落とし格子が組み合わされている。当時、このS字頸飾は大法官の証とされ、前任者から受け継いだという(本作制作中、モアはまだこの地位になかったため、ホルバインが後に描き加えた可能性あり)。ヘンリー八世はモアの著作を読み、己の思想上の師として長く敬意を払ってきた(ヘンリーは若いころルター批判の書を著して教皇から「信仰の擁護者」と賛辞をもらったが、実際に書いたのはモアだったと言われる)。高潔さで知られたモアは実務家としても優秀で、下院議員、ネーデルラント使節、財務次官と出世し、ナイトの称号も与えられ、大法官となったのが一五二九年。
 モアは容易な事態ではないのを覚悟したであろう。なぜなら前任者のウルジー卿は、ヘンリー八世をずっと支え続けてきたにもかかわらず、反逆罪の濡れ衣を着せられて地位剥奪、財産没収の上、ロンドン塔へ収監される途上で急死していた(おかげで斬首は免れたわけだが)。
 全てはアン・ブーリン問題だった。世継ぎの王子を産めない妃キャサリンを離縁し、アンと結婚したがったヘンリー八世は、カトリックが教義上離婚を認めないと知りながら、ウルジーに教皇懐柔を託し、なかなかうまくゆかないのはウルジーにやる気がないせいだと思い込んだのだ。
 モアは当然ながら再婚に反対だったが、ウルジーの二の舞になるまい、決して言質(げんち)を取られまいとして、アン・ブーリンについては触れず、ただ離婚を正当化する根拠を見出すことはできない、と王に伝えるにとどめた。ヘンリー八世としては、国民から信の厚いモアの再婚賛成を期待していたため怒りを募らす。それを察したモアは、大法官の地位を辞した。任官後、わずか三年後のことである。
 やがてアンと再婚したヘンリー八世は、モアが蟄居しようとも許す気はなかった。教皇権を否定する国王至上法に反対しているとして、モアは反逆罪で逮捕される。裁判では、「自分は敬虔なカトリックであって、第一にまず神の僕(しもべ)である(つまり王より神が上)」と述べ、一五三五年、粛々と断頭台に上る。首は旧ロンドン橋に長く晒された。
 死後四百年には列聖されたモアだが、大法官だった三年の間に、六人のプロテスタントを異端者として生きたまま火刑に処している。これを知った時には驚いた(アメリカ建国の父ジョージ・ワシントンの邸宅を見学した際、広い庭の一角に黒人奴隷用の大きな奴隷小屋を見た時と同じくらいのショックだった)。
 改めて肖像画を見直すと、ホルバインはモアという人間の核心を突いたのだとわかる。確固たる信仰心の主は己の命を捨てることを厭わないだけでなく、異端者の命を奪うことも厭わない人間なのだ。

 もう一点、同じホルバイン作品を見よう。同時代の政治家トーマス・クロムウェルの肖像画だ。


Portrait of Thomas Cromwell(1532)Hans Holbein
ALBUM/AFLO

 英国史におけるクロムウェルといえば、およそ百年後のピューリタン革命でチャールズ一世を斬首したオリバー・クロムウェルが思い出されるだろう。実は血筋が同じで、革命家オリバーは、トーマスの姉の玄孫(やしゃご)、要するに孫の孫である。オリバー・クロムウェルからすると、ヘンリー八世の重臣トーマス・クロムウェルは高祖母の弟ということだ。
 本作は図らずも(いや、図って?)、モアとクロムウェルの対立関係を示すかのように視線の先が逆で、向き合う形になっている。裁判で対立し、モアを死へ追いやったのはクロムウェルなのだ。
 インテリ家庭に生まれたモアと違い、クロムウェルは典型的な成り上がりだった。職を転々とする貧しい父を持ち、早くに家を出てフランスへ渡って傭兵になる。その後フィレンツェの富豪の使用人になったり、ネーデルラントで商人をしたり、教皇庁の枢機卿のもとで代理人の仕事に携わって各国語をあやつり、故国へ帰ってウルジー卿の秘書になった。
 目から鼻に抜けるような利口者なのは間違いない。遅ればせながら法学を学び、議員になり、イングランド各地の修道院調査報告がヘンリー八世を満足させ、宮廷入りして腹心となり、政治的実権を握る。モアと同じくナイトの称号も得る。最終的にはエセックス伯という大出世だ。
 クロムウェルは徹底してヘンリー八世の意を汲んだ政治を行った。イングランドをヴァチカンから切り離し、英国国教会を樹立して王権を強化し、教会や修道院を解体してその財産を没収、国庫を富ませた。
 後代のオリバー・クロムウェルは暴力による革命を起こしたが、トーマス・クロムウェルは頭脳戦で宗教改革をやってのけたのだ。歴史の教科書ではそれは全てヘンリー八世がしたことになっているが、クロムウェルの頭脳と実務処理能力あってこその、(ある意味)偉業であった。彼の名はモア以上に評価されてしかるべきかもしれない。
 クロムウェルの人気が低いのは、アン・ブーリンの斬首に賛成し、その陰で三人目の妃ジェーン・シーモアとの婚姻をお膳立てしたことによるのだろう。またクロムウェルの一人息子は、ジェーン・シーモアの妹と結婚したので、政界での立場は盤石となる。今や新王妃の親戚になったのだから。
 しかし彼の絶頂はここまでだった。番狂わせが起こった。王妃は王子を産んだが産褥死した。そしてヘンリー八世は今度はもっと丈夫で、もっと何人もの男児を産める妃を望んだ。クロムウェルはドイツのアン・オブ・クレーヴズに白羽の矢を立て、ホルバインが派遣されて彼女の肖像画を描き、王に見せる。王は気に入り、婚姻が決まるが、実物が登場した途端、想像していた女性とは違うと王は立腹。即、離婚。ますます短気になっていたヘンリー八世は、なぜか怒りをホルバインではなくクロムウェルに向けた。政敵たちもここを先途とクロムウェル追い落としに加担する。
 突然の逮捕。モアと同じだ。衣冠も財産も奪われ、斬首、ロンドン橋に串刺しの首という流れ。
 つくづくヘンリー八世時代の政治家は難儀な職業であった。

著者情報

©文藝春秋/三宅史郎

中野京子(なかの きょうこ)

北海道生まれ。ドイツ文学者・作家。西洋の歴史やオペラ、美術など芸術の幅広い知識を生かして雑誌や新聞などの連載やテレビ出演など幅広く活動。2007年発表の『怖い絵』シリーズは大ヒットを記録し、シリーズ刊行10周年を記念して、2017年には自身が特別監修者を務めた「怖い絵」展も開催された。主な著書に『怖い絵』シリーズ(角川文庫)、「名画の謎」シリーズ(文春文庫)。『美貌のひと』(PHP新書)、『画家とモデル』(新潮社)、最新刊に『西洋奇譚』(中央公論新社)など。著者ブログは「花つむひとの部屋」https://blog.goo.ne.jp/hanatumi2006

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令和2年7月豪雨被災お見舞い

このたび令和2年7月豪雨により各地で被災された皆様に、心からお見舞い申し上げます。また、被災地等におきまして、避難生活や復興支援など様々な活動に 全力を尽くしていらっしゃる方々に、深く謝意と敬意を表します。一日も早く 復旧 がなされますよう衷心よりお祈り申し上げます。

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