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Shueishagakugei

謹んで「熊本地震」災害のお見舞いを申し上げます。

熊本地震により甚大な被害が発生いたしました。
お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りいたしますとともに、
被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。
一日も早く平穏な日々が戻りますよう、そして復旧がなされますよう心よりお祈り申し上げます。

(株)集英社

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謹んで地震災害のお見舞いを
申し上げます。

東日本大震災により被災された皆様に、心からお見舞い申し上げます。
また、被災地等におきまして、救援や復興支援など様々な活動に全力を尽くしていらっしゃる方々に、深く敬意と感謝の意を表しますとともに、一日も早く復旧がなされますよう心よりお祈り申し上げます。

(株)集英社

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Nonfiction

読み物

家族終了 酒井順子

第5回 家族旅行

更新日:2018/06/27

 夏休みやゴールデンウィーク、そして年末年始など、混んでいる時期に家族旅行をしている人たちを見ると、純粋に畏敬の念が湧いてきます。東京駅も羽田空港も、はたまた人気の観光地も、人また人。子供は泣き叫び母親は怒鳴りちらしお年寄りは困惑し、のみならずそこに外国人観光客も混じり込んで異国の言葉も乱れ飛び‥‥と、そこはバベルの塔もかくやの生き地獄。
 その手の時期は、飛行機や宿泊施設の料金も、高騰しています。混んでいるわ高いわと、ストレスフルであることがわかっていても、それでも家族は旅行をするのです。その時は大変でも、後からきっと、「行ってよかった」と思うはず。インスタにもアップできるし、子供の夏休みの絵日記もアップできる。バブル崩壊以降、「モノより思い出。」(by日産セレナ)な時代は続いているのであり、貴重品である子供に思い出をたくさん残してあげるために、親御さん達はストレスを背負いながらも、旅行をするのです。
 家族という集団から既に足抜けしている私としては、その姿にひれ伏すような気持ちになるのでした。私は、家族のみならず、社会人としても何ら団体に属していない身。ということは、混んでいる時期に混んでいる場所に行かなくてもいいわけで、盆暮れはいつも自宅で、「家族がいない」という事実を噛みしめております。
 そんな私がもしも家族を持っていたとしても、その手の時期に家族旅行は、していなかったのではないか。子供に、
「どこか連れていってよーう」
 と泣いてせがまれても、せいぜい弁当を作って近所の公園に行く程度だったことでしょう。やはり神は、耐えられる人にしか負担をお与えにならないのね‥‥と思います。
 我々世代は、既に子供も大きくなっているので、子供と一緒に旅行に行くという人は、減ってきました。その代わりに求められているのが、親を連れていく旅行です。親達は、「どこかに連れていってよーう」
 とは泣き叫ばないものの、
「◯◯さんは、娘さんが香港に連れていってくれたんですって」
 といった言葉で、子供達にプレッシャーをかけます。そして「子供に旅行に連れていってもらった」という事実をインスタにはアップしませんが、友人やご近所さんへのお土産の配布という行為によって、アピールするのです。
 親御さん達が健在の友人達は、ですから修行のように親孝行旅をしているのでした。見事に修行を成し遂げた人は、
「両親と箱根の温泉へ。足が悪い父のために、バリアフリーの宿を探しました。喜んでもらえてよかった。長生きしてね!」
 といった文章を画像とともにSNSにアップ。「親孝行ね」「ご両親、お元気ですね」といったコメントを得ることによって、親孝行任務完遂、となるのでした。
 私も親が健在の頃は、根性を振り絞って、旅行に連れていったものでしたっけ(ごくたまに)。しかしこんなにぶっすりした娘と旅行をして、親は楽しかったのかどうか。それは今でも、疑問として残っています。子供が幼いうちは親が子を、子供が育てば子が親をどこかに率てゆくことは、家族の務め。私もあの頃は、親との旅を年貢感覚でしていた気がします。
 今の親御さん達を見ていて、もう一つ大変だなぁと思うのは、子供がほとんど赤ちゃんのうちから、毎年のようにディズニーランドに連れていっていることです。私が子供の頃はディズニーランドはまだ無く、行くとしたら後楽園か豊島園。それでも、お金がかかるレジャーを嫌う我が家では、滅多なことでは足を運ばなかった気が。無論、「プリンセスの格好をしたい」などという欲求が、私の中に発生したこともありません。
 しかし一九八三年に東京ディズニーランドが開業して以来、日本人にはディズニーの魔法がかけられて、親御さん達はせっせと子供を連れていくようになったのです。今も、夕方から夜にかけての東京駅を歩いていると、京葉線ホーム方面から、魔法が解けて精も根も尽き果てた表情の人達が、ゾンビの群れのように歩いてきます。そう、それは東京ディズニーランド帰りの人達。
 双子コーデの若者達も、疲れ果てて口角は下がっている。家族連れは、さらに不機嫌そうです。ディズニーのかぶりものを装着した小さな子供は、お父さんの背中で失神状態。両親の手には、大きなお土産物袋がいくつも。服装は明るいのだけれど表情は暗く、どこかの国境線から逃れてきたかのような雰囲気です。
 彼等を見ても、いつも私は「無理だ‥‥」と思うのでした。今時の親御さんは、自分も子供の頃からディズニーランドに行っていたということで、自分も行きたいし、子供にも同じことをしてあげたいのでしょう。が、もしも私に子供がいたら、
「もっと他のことで喜ばせるから、ディズニーランドにだけは一緒に行きたくない。大きくなってから自分で行って」
 と言うにちがいありません。
 そんな感覚はきょうだいで似ていたようで、我が兄もまた、娘が生まれても、
「ディズニーランドという存在に気づかせないようにしている」
 と言っていました。
「だってあんな所に行くの、絶対に嫌だよ。知ったら行きたくなるだろ?」
 と。
 娘に愛情がなかったわけではありません。娘のことはたいそう可愛がっていたのであり、色々な所に連れていってもいた。しかし「愛情とディズニーランドは別」だったらしい。私も、
「だよねー」
 と兄に賛意を示し、この世にディズニーランドという地があるという情報は封印。
「お父さんが連れていってくれないなら、私がディズニーランドに連れていってあげる」
 とは、決して姪に言わなかったのです。
 かくして姪が生まれて初めてディズニーランドに行ったのは、おそらく東京の子供の平均初ディズニーランド体験年齢よりぐっと遅いであろう、十歳頃。しかしその後、彼女が「また行きたい」と言わないのは、我々と同じ血のせいなのか、大人に気を遣っているせいなのか‥‥。
 この、皆が行く時期に皆が行く場所へは行かないという性質は、我々の親から引き継いだものかもしれません。それというのも私が子供の頃、夏休みの旅行の行き先と言えば、毎年決まって、千葉の海辺の町に住む親戚の家だったから。
 子供の頃、夏休み明けの友人の作文に、沖縄とか軽井沢とか海外に行ったといったことが書いてあるのを見て、私はいつも「すごい!」と思っていました。我が家の旅行において、普通のホテルや旅館に泊まることなど皆無。他人の別荘にご一緒させてもらうことはあれど、もちろん自分の別荘は無い。つまりは徹底してお金とストレスのかからない家族旅行をしていたのです。
 隣県とはいえ、まだアクアラインもできていない時代、房総半島の端っこの方まで車で行くのは、かなりの長旅でした。途中、運転している父親の機嫌が悪くならないかとビクビクして過ごし、それでも頑是ない子供としては後部座席できょうだい喧嘩などしてしまい、ああやっぱりお父さん機嫌が悪くなっちゃったね‥‥ということで、道中はいつも気が重かったことを覚えています。
 半島の端っこというのはたいてい、俗世から隔絶されたディープな長閑(のどか)さを湛(たた)えているものですが、房総半島もまた、例外ではありません。ですから東京の住宅地育ちの私としては、夏休みに千葉で過ごす数日は、ほとんど留学感覚でした。岩牡蠣を石で叩き潰して海水で洗ってすすり、一応は海水浴場なのだけれど外房の波が激しすぎて人がほとんどいない浜で毎年のように「あ、死ぬ」という瞬間に見舞われ、時には山の中の滝まで行って、手が切れそうに冷たい滝壺で泳ぎ‥‥と、決して軽井沢だのハワイだのでは味わうことができない野性的な経験を積んで、私は子猿と化していったのです。
 親戚の家は、障子などを取り払えば冠婚葬祭が何でもできるというタイプの、昔ながらの田舎の家。そこに我々一家を毎年ホームステイさせてくれたのですから、懐が深い。我々と同世代のきょうだいがその家にもいたので、一緒に遊んだり食卓を囲んだりしたものです。
 花の栽培が盛んな南房総。その家でも菊の栽培をしており、納屋にはいつも菊の香りが漂っていました。今、花屋さんで菊の香りをかいだり、中国料理店で菊のお茶を飲んだりすると、あの頃の思い出がフラッシュバックしてきます。ああ、あれは貴重な体験だった。大人達は、「モノより思い出。」などというコピーが無い時代から、それを実践してくれていたのだなぁ。朝から晩まで、遊ぶことだけに没頭することができたとは、何て幸せな時代だったことか。浜の流木を燃やして鉄板を載せ、浜でとったサザエを焼いたり焼きそばを作ったりしていたのは、今思えばバーベキューっていうやつだったのね‥‥。
 そんな千葉滞在だったわけですが、日が経つにつれ、私はいつも一種の胸苦しさを覚えるようになってきました。当時はそのもやもやした気分の原因が何なのかがわからなかったのですが、今となってはわかります。私はおそらく千葉に行く度に、生々しい生命力にじかに触れたことによる、自家中毒のようなものを起こしていたのではないか、と。
 隣県とはいえ、南房総の海辺の町は、私が普段暮らしている東京の住宅地とは環境が全く違いました。その頃はまだ汲み取り式のトイレもあったし、見たこともないような巨大な蛾とかニョロニョロした虫も、いたるところに。夏の日差しに照らされて立ちのぼる草いきれ、浜の岩場にいる謎の生物達等、有機的な香りに満ち満ちていたのです。
 例年の行事とはいえ、他の家族と共に数日を過ごすことも、私は未知との遭遇感覚を抱いていました。親戚のおじさんは、文弱の徒である我が父と正反対で、海でのモリも山でのカマも使いこなす格好いい野生派。子供達も、ひょろっとした色白の兄と比べると、黒潮感漂う風貌です。
 つまり千葉の一家には、我が家族と比べようのない生命力がみなぎっていたのです。東京においても、お誕生日会などで誰かのおうちに遊びに行く度に、家の中に充満した、家族毎(ごと)に異なる生々しさにウッとなっていた私。親戚であっても全く異なるタイプの家族の中に入っていき、同じ風呂に入って同じトイレを使用するという数日間の濃厚さに、私は酔ったのではないか。
 しかし、他人の家にステイさせてもらうことよりも汲み取り式トイレよりもニョロニョロした虫よりも私を酔わせたのは、海でした。私が育った東京の西部は、山はもちろん見えないのですが、海もまた遠い。私が海と接する機会は、夏休みの千葉においてのみ。
 海は、私にとって脅威の存在でした。ザブンザブンと波が押し寄せ、波濤(はとう)が割れる。引き波の強さたるや、子供などとても立っていられないほど。引きずり込まれるように連れていかれて海水を飲み込めば、その塩辛さは味噌汁の比ではない。
 波に揉まれてもがいていると、どちらが岸でどちらが沖か、どちらが空でどちらが砂かもわからなくなり、ふと気がつけば急激に海は深くなっていて、ジタバタする足先が触れる水の温度は明らかにひんやりと‥‥。
 太古の昔、生き物というのは海の中から発生したということですが、確かにその水は、プールや風呂とはまったく違って、生命を発生させそうな質感でした。海から上がっても肌はベタつき、もちろん浜にはシャワーなどという洒落たものはありませんから、ベタつく身体のまま、ビーサンをひっかけてずるずると親戚の家まで帰る道すがら、普段はサラッと生きている自分が、べたべたした一介の生き物でしかないことがわかって、えずきそうになったものでしたっけ。
 家族旅行というのは、親が子供に普段とは違う世界を見せるために行うものなのでしょう。異国に行って異文化を体験させたり、ディズニーランドという人工的な夢の国を見せることによって、子供は目を輝かせる。
 我が親の場合は、千葉という東京の隣の県、それも東京ディズニーランドと同じ県であるにもかかわらず(ま、当時はまだディズニーランドは無かったのだが)、都会とは全く異なる有機的世界に子供を叩き込む、という手段をとりました。確かに、心身ともに「たくましい」という感じではなかった我々きょうだいに、荒療治を施したくなった親の気持ちは、わからぬでもありません。子猿のように日々遊んでいた私も、子供の頃から軽井沢やらハワイやらに行っていた人よりは、鍛えられたと思う。
 しかし私は、毎年夏にちょっとずつ醸成したたくましさを、その後の人生には生かすことができなかったようです。そこで目覚めていれば、今頃は里山で味噌とかを仕込みながら、子供を四人くらい産んでいたのかもしれません。が、太平洋の荒波に揉まれながら抱いた有機的なものに対する畏れの気持ちは今でも消えておらず、私は相変わらず東京の西側で、虫がちょこっと出てきてもキャーキャー言うようなサラッとした生活を送り続けているのですから。
 千葉に滞在していた時、朝に目が覚めると、波の音が遠くから聞こえてきました。その音は、私に「あなたは一個の生き物でしかない」と囁き続けるようだった。大仰に言うならば、私はあの波の音によって、自分という存在が、海からずるずると生まれ出た原初的生物とつながっているという事実を、突きつけられたのです。のみならず、寝ていた座敷には、巨大な仏壇とか神棚とか先祖代々の写真といった、田舎のおうち特有の「脈々と続く人類」を感じさせるグッズが目白押し。
 ああ重い。重いよ‥‥とグッタリしている時に、
「早く起きなさい。もうご飯よ」
 と寝床からひきずり出されると、食卓に並ぶ味噌やぬか漬けといった発酵食品までが、「生きてまーす!」と主張するかのようで、まだ初潮も来ていないのに、つわり中のような気分に。
 私達きょうだいが小学校を終えると、もう夏になっても、家族で千葉には行かなくなりました。部活だ遊びだと私達は忙しくなってきたし、前にも書いた通り、家族崩壊の危機に見舞われて、家族旅行どころではなくなってきたのです。
 そうなっても私は、「生き物の生々しさ」といったものが苦手なままでした。友人達が第二次性徴を迎え(私は成長が遅いタイプだった)、胸が膨らんだり初潮を迎えたりするのを見た時も、プールの授業でモジモジと着替えたりする時も、はたまた街で妊婦さんを見かけた時も、私の中で膨らんでくるのは、千葉の朝、目覚めと同時に波の音を聞いた時に感じた、喉元に迫り来るような重さ。
 そうしてみると、私が今、家族を持たない大人になっているのも、当然の帰結なのかもしれません。家族というものは、有機物と有機物とが掛け合わされ、様々な液だの汁だのといったべたべたしたものが入り混じることによって新たな生命が生まれた結果、できる集団。そんなべたべたしたものが「苦手」なのだから、家族を持たないことも仕方あるまい。
 そういえば私は、もう何年も海に浸かっていません。今までの人生で、
「海が見たい」
 とつぶやいた経験も、無いのではないか。
 一方では、山の中に静かにたたずむ水たまりである湖に対しては、こよなき親しみを感じる私。サラッとした淡水が静かに湛えられる様が、自分と重ねられるからなのだろうなぁと、思います。
 そんな私は、これから年老いても、子供から旅行に連れていってもらうことはありません。子を持つ友人達はきっと、子や孫とともに温泉に行ったりし、その様子をSNSにもアップするでしょう。そして私はその様子を一人、湖畔の宿においてスマホで眺めているに違いないのです。


*本連載は今回で終了となります。加筆の上、2019年に刊行される予定です。

著者情報

酒井順子(さかい じゅんこ)

高校在学中から雑誌にコラムを発表。
立教大学社会学部観光学科卒業後、広告会社勤務を経て執筆専業となる。
2004年『負け犬の遠吠え』で婦人公論文芸賞、講談社エッセイ賞をダブル受賞。
著書に『下に見る人』『ユーミンの罪』『地震と独身』『裏が、幸せ。』『子の無い人生』『ananの嘘』『忘れる女、忘れられる女』『百年の女-「婦人公論」が見た大正、昭和、平成』など多数。

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