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Shueishagakugei

謹んで「熊本地震」災害のお見舞いを申し上げます。

熊本地震により甚大な被害が発生いたしました。
お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りいたしますとともに、
被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。
一日も早く平穏な日々が戻りますよう、そして復旧がなされますよう心よりお祈り申し上げます。

(株)集英社

  • 集英社・熊本地震災害被災者支援募金のお知らせ

謹んで地震災害のお見舞いを
申し上げます。

東日本大震災により被災された皆様に、心からお見舞い申し上げます。
また、被災地等におきまして、救援や復興支援など様々な活動に全力を尽くしていらっしゃる方々に、深く敬意と感謝の意を表しますとともに、一日も早く復旧がなされますよう心よりお祈り申し上げます。

(株)集英社

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Nonfiction

読み物

家族終了 酒井順子

第3回 心配

更新日:2018/04/25

 新入社員時代、
「ホウレンソウ、これが大事」
 と先輩から言われたことがあります。すなわち若手の社員は、先輩なり上司なりに、何かある度に報告、連絡、相談をした方がいい、と。
 私は、しかしこのホウレンソウが全て苦手でした。「面倒臭い‥‥」と、何か問題が発生しても自分のところで滞留させ、そうしているうちに問題は肥大化。ますます上司に報告も相談もしづらくなる、と。
 ホウレンソウが大切なのは、企業においてだけではありません。社会の中で最も小さな単位と言われる家族においても、ホウレンソウがスムーズに行われていると、家族経営は上手(うま)くいくのではないか。
 私も、小さい頃は親に何でも話していたのだと思うのです。幼稚園やら学校やらで、こんなことがあった、あんなことがあったと親に報告することを喜びとしていたはず。
 しかし年齢が二ケタに届きそうになれば、子供の心は全て親に公開されるわけではなくなります。親には話さず、友達にだけ話す体験。誰にも話さずに自分の中だけで発酵・熟成させる、エロい興味や黒い欲望。親に公開されない心の範囲は、じわじわと増えていくことになるのです。
 私の場合、特に明るい性格でもなかったので、幼児の頃の無邪気さが消えると、家の中でもめっきり無口になりました。さらには、父親の性格を鑑みた時、「下手に報告だの相談だのをして、機嫌を損ねるのも面倒臭い」と、中学生の頃からは何でも自分の中で処理をするように。
 とはいえ前回も記したように、我が家では母親が、自分のボーイフレンド達をいちいち私に見せていたので、私は「そういうものだ」という感覚だけは持っていたようです。高校生になって異性の友達ができると、彼等(かれら)は必ず私の家に来て親に紹介されていましたし、本格的にボーイフレンドができるようになれば、デートだろうと旅行だろうと、母親にはちゃんと報告していたのです。勉強や成績といった辛気臭い事柄に関するホウレンソウは不得意でしたが、こと性愛に関してはきっちり連絡するというのが、我が家のローカルルールだった。
 子供達に一切の行動制限をかけなかったことも、我が家の変わった感覚だったと、今になっては思います。高校生になれば、何時に出て行こうが何時に戻ろうが、親は何も言わないように。夏休みなど、友達の家を泊まり歩いて何日も帰らないこともありましたが、特に心配はしていないようだった。
 今、高校時代の友人と、
「なぜあの頃、親達は私達のことを心配しなかったのか?」
 と、話し合う時があります。子を持つ友人などは、自分の子供のことは心配でならないのだと言います。大学生になった男の子であっても、帰宅が夜十時を過ぎるとソワソワしてしまう、と。
「でも私達の高校時代は、夜十時過ぎから出かけたりしていたじゃない? 娘にあれを容認する親って、何だったのかしら」
 と、親になった今だからこそ思うらしい。
 昔は、今よりも若者は粗雑に扱われていたものです。厳格に育てるにしても、放任で育てるにしても、「多少手荒く扱っても大丈夫」という感覚が、親にはあった。
 対して今、子供というのは希少かつ貴重な存在ですから、親達も丁寧に扱っています。下手に人権を無視した行動に出たら、実の子であってもハラスメント扱いされかねないわけで、子供達は曲がらないように、傷つかないようにと、宮崎マンゴーのように大切に育てられている。
 私の時代はまだ、そんな感覚はありませんでした。子供は、せいぜい露地ものの野菜程度の扱いだったのではないか。
 我が親も、だからこそ私のことをあまり心配しなかったのでしょう。
「私は学生時代に思いきり遊んで楽しかったから、あなたもできるだけ遊んだ方がいいと思って」
 ということだったので、私も親の期待に応えるべく、頑張って遊んでいたのです。
 親も「心配をしないタイプ」ではありましたが、私自身もまた、「親に心配をかけないタイプ」の子供ではありました。ツッパリ(今で言うところのヤンキー)などの不良が当時は同世代にたくさんいたのですが、「あの人達はきっと寂しがり屋だから、親だの先生だのに心配をしてもらいたくて、規則を破っているのだろう」と思っていた。
 私はといえば、親や先生が自分の生活にかかわってくる方が面倒臭かったため、悪事を行うにしても、決してばれないよう、巧妙に立ち回っていました。幸いにして、なのか不幸にして、なのかはわかりませんが、要領と運が良かったので、悪事は親にも先生にも官憲にも、ばれることはなかった。勉強も、先生に目をつけられない程度にはしていたので、親が学校に呼び出されることもない。
 そんな私も、少し寂しい時はあったのです。学校では、明らかなワルだったり成績が低迷したりしている友人達のことは、先生方もいつも気にかけていました。その手の友人達は、えてして「本当は気の良い子」だったりするので、先生方も可愛く思ったのでしょう。反対に、「心配をかけない」というのは「存在感が薄い」ということでもあり、先生から可愛がられることもなかった私は、そんな子達のことを「いいなぁ」と思っていた。
 家庭においても、兄と比べて私は、「順子ちゃんのことは、心配しなくても大丈夫」と目されていました。兄は、長子らしくのんびり、ぽわんとしたタイプ。親に怒られるようなことを平気で、それもわざわざバレるようにやらかすので、親はいつも、
「お兄ちゃんが心配よ」
 と言っていた。
 対して私は、そんな長子を見て「どうしてあんなことするかな」とニヤニヤ笑うという、末子的狡猾(こうかつ)さを、しっかりと身に付けていたのです。傷だらけになってモタモタしている兄の脇を、いつも無傷でするっと抜けていくのが、私。
 進学でも就職でも、兄のことは親が寄ってたかって心配していたのに対して、私は自分の力で何とかしていました。それなりにピンチの時もあったのですが、「とはいえ、今さら親に相談なんてできないしなぁ」ということで、ピンチにあることを親には悟られないよう、自分で処理したのです。
 就職をする時も、会社を辞める時も、実家から出る時も、親には何も言わずに自分で決めて、するっとぬるっと生きてきた私。いつまでも結婚しないことは心配だったとは思いますが、それなりに自活はしていたので「ま、いいか」と思っていたのではないか。
 しかし今、いい大人になり、親達もいなくなってから浮上するのは、
「こんな私のことが、果たして親は可愛かったのだろうか?」
 という疑問なのでした。確かに心配も面倒も、親にはかけなかった。しかし親というのは、心配や面倒をかけられてこそ、子のことをより愛おしく思うのではないか。
 私はといえば、心の内側を親には決して見せず、見せないくらいならまだしも、一方ではそれを恥ずかしげもなくエッセイに書いて口に糊するという捉えどころの無い娘。親はそんな娘の扱い方に苦慮したに違いありません。
 専業物書きになってからも、自分の仕事のことは一切、親にホウレンソウしなかった私。それでも私が書いた本や雑誌を密かに買っていたりするのを見れば、「あら、親心」とは思いましたが、「いやでもきっと、ずっと親に心配をかけていたお兄ちゃんの方が、親にとっては可愛かったのでは‥‥」と思うのです。
 思い返せば、あれはまだ母親が生きていた頃のこと。私はとある仕事で、年末に第九の合唱をすることになりました。会場は、東京国際フォーラム。前にオーケストラとソリスト、後ろに合唱隊が並びます。合唱に参加する人数はかなり多かったので、ひな壇は相当な高さとなりました。
 それは、「第九が歌いたい」と熱望する素人のための会でしたので、会場は立派でしたが、集客はそう望めません。私も、割り当てられたチケットを親などに配付し、我が母も友人と一緒に見に来てくれたのです。
 そして、本番。合唱隊の並び順を決める時、ものすごく上の段を指定された私は、落ちないようにと踏ん張りながら、歌い上げました。難しい曲ではありましたが、それだけに達成感があり、楽しいひと時だったのです。
 全てが終わって帰途につく時に携帯を見れば、そこには母親からのメールが。
「おつかれさま。段から落ちないかと心配した」
 と、書いてありました。
 いかにも「おかんメール」的なぶっきらぼうな文章ですが、私はそれを読んだ瞬間、ものすごく嬉しかったのです。親から心配されない人生を延々と歩んできたけれど、こんな大人になって心配されるなんて! と。
 意外なほどの嬉しさを噛み締めつつ、私は「ああ私、本当は心配してほしかったのだなぁ」と思っていました。親に心配されたり干渉されたりするのが面倒臭いからと、ホウレンソウを一切せずに生きてきて、親も親でそれに慣れて、私を放置していた。けれど私は、どこかで「私のことも心配してー!」と、思っていたのではないか。
 その時、とうに四十は過ぎていた私。母親は六十代だったのであり、親子関係としては、既に私の方が親の心配をする側になっていました。どの親子でもその年頃になれば親子の逆転現象が起こるかと思いますが、何かするにしても、主導権は私が持つのが当たり前となっていたのです。
 さらには仕事の面でも、周囲の人から心配されることは、もうなくなっていました。既に長い経験も積み、締め切りも守るタイプの私は、やはり「ま、あの人は適当にやっていくでしょう」と周囲から思われつつ、するっと働いていたのです。
 そんな時期であったからこそ余計に、「段から落ちないか」と、母親から小さな子供のように心配されることが、私は嬉しかったのです。私にも心配してくれる親がいるのだな‥‥と、暖かな布団を掛けられたような気持ちになった。
 その翌年に、母は他界しました。以降、年末に第九を聴く度に、私は母親がしてくれた“最後の心配”のことを思い出します。
 私はこれから一生、第九は歌わないことでしょう。合唱が嫌いではないのですが、次にもしも第九を歌ったなら、視線の先の客席に、かつて私を心配してくれた人が座っていたことを思い出し、歌うどころではなくなってしまうと思うから。

 若年期、親に心配をかけないようにしすぎたせいなのか、私は今でも「心配」に飢えているのだと思います。以前、幼児だった姪(めい)と散歩をしている時に、
「あ、わんわんだ〜」
 と駆け寄った姪と犬の間に「あぶないあぶない」と割って入ったら、その犬が私にじゃれかかってきたことがありました。それはかなりの大型犬であったため、私と犬ががっぷり四つの格好に。
 それを見た姪の、
「大丈夫‥‥?」
 という言葉にも、私はじーんとしたことでした。まだ幼児の姪が心配してくれるだなんて、おばちゃん嬉しいっ、と。
 そんなわけで、心配に飢えている私を殺すのに、刃物はいりません。もう少し年をとったなら、突然の電話で優しく心配の声をかけてくる知らない人に対して、ほいほいとお金を振り込んでしまいそうな気がする。
 今、私の年頃の人達は、心配盛りの時期を迎えています。子育てはそろそろ手を離れるけれど、進学やら就職やらと、最後の心配が残っている。親に対しては、老後の生活そして介護の心配が。‥‥と、親に対しても子に対してもケアをしなくてはならないのです。
 親も子も無い状況の私は、そんな友人知人を「偉い!」と見ているのでした。彼女達は今、“心配の主体”として、家の中になくてはならない存在なのだから。
 “心配の主体”達は、だからこそストレスも抱えています。友人達を見ると、今は「父親が先に他界し、母親だけが残っている」というケースが最も多いのですが、そのケースにおける娘達は今、一人残ったお母さん達から発せられる、
「私のことをもっと心配して!」
 という有言・無言のプレッシャーを、ひしと感じている様子。
 友人達で集まると必ず出てくるのは、その手の愚痴です。
「パパが生きてる時は気にならなかったんだけど、パパがいなくなってからのママが重くてたまらない!」
「わかる、夜となく昼となく電話をかけてくるし、『私って可哀想』アピールがもう激しくって!」
 などと。
 その気持ちは、私もよくわかります。確かに夫婦がユニットとして存在している時は、互いの個性の受け止め手が家の中に存在しているので、問題は家の中で収まるのです。が、一人が先立ってしまうと、残された方の個性の照射先が、家の外へ向かう。特に娘というのは、女親が最もわがままを言いやすい相手なので、
「もっと私の心配をしてほしい」
 という欲求を一手に引き受けることに。
 我が家でも、父が先立ち、母が一人でいる時は、
「一人での食事なんか本当にどうでもよくて、私なんかキッチンで立って食べてるからすぐ終わっちゃうわ」
 といった可哀想アピールが、強くなされたものです。しかし、心配されることに慣れていない私は、心配することにも慣れていませんでした。その上、母親は常に誰かと一緒にいる生活をしてきましたが、娘は一人でいるのが大好きなので、「一人が寂しい」といった感覚も、よくわからない。
 母を食事に連れていったり、実家に食事をしに行ったりと、自分なりに努力をしてはいたのです。が、本当に彼女を満足させることは、私にはできませんでした。と言うより、可哀想アピールに対して「チッ」と思いつつ親孝行ぶりっこをしていたことは、完全に母親にばれていたのではないか。
 母親が一人で残った時、ついつい娘に対してしてしまう、可哀想アピール。それは、「自分は子供のことを愛してきた」という自負の表れなのかもしれません。だからこそ娘には自分を心配してほしい。もっと自分のことを見てほしい。‥‥と、それは幼児が親に対して行うアピールとも似ています。
 愛した相手から、愛されたい。心配した相手から、心配されたい。‥‥という、感情の等価交換をつい求めるのが、人間の常。しかし必ずしもそうはいかないのが、人の世です。かつては、身を粉にして子育てして年を取った女性のことを、子や孫が大切にし、次の世代でもまた同じことを‥‥という順繰りのシステムが確立していましたが、今はそううまくもいきません。そもそも子孫がいない人も多いですし、いたとしても今時の親や祖父母は、子や孫に迷惑をかけることをよしとしないのですから。
 かつては、「いつか自分に戻ってくるもの」だった家族内での愛情や心配ですが、今それらは掛け捨て状態になっているのかもしれません。しかしそれでも人は、家族のことを心配し続けるのでした。子や孫にかけた愛や心配がこの先、自分に戻ってはこないかもしれないけれど、それでも思いを寄せずにはいられない。経済の原理からは離れた感情のやりとりがなされる場こそが、家族というものなのでしょう。

著者情報

酒井順子(さかい じゅんこ)

高校在学中から雑誌にコラムを発表。
立教大学社会学部観光学科卒業後、広告会社勤務を経て執筆専業となる。
2004年『負け犬の遠吠え』で婦人公論文芸賞、講談社エッセイ賞をダブル受賞。
著書に『下に見る人』『ユーミンの罪』『地震と独身』『裏が、幸せ。』『子の無い人生』『ananの嘘』『忘れる女、忘れられる女』など多数。

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