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Shueishagakugei

謹んで「熊本地震」災害のお見舞いを申し上げます。

熊本地震により甚大な被害が発生いたしました。
お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りいたしますとともに、
被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。
一日も早く平穏な日々が戻りますよう、そして復旧がなされますよう心よりお祈り申し上げます。

(株)集英社

  • 集英社・熊本地震災害被災者支援募金のお知らせ

謹んで地震災害のお見舞いを
申し上げます。

東日本大震災により被災された皆様に、心からお見舞い申し上げます。
また、被災地等におきまして、救援や復興支援など様々な活動に全力を尽くしていらっしゃる方々に、深く敬意と感謝の意を表しますとともに、一日も早く復旧がなされますよう心よりお祈り申し上げます。

(株)集英社

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Nonfiction

読み物

家族終了 酒井順子

第2回 火宅

更新日:2018/03/28

 恥ずかしがる素振りも見せず、当たり前のように母親と仲が良い「ママっ子男子」について前回は記しましたが、そんな男子に私が驚くのは、自分が親と仲良しではなかったからです。パパっ子女子でもなければママっ子女子でもなく、親と常に一定の距離を置いていた感じ。
 私は両親と兄、そして祖母という五人家族で生まれ育ちました。両親に子供二人というのは、昭和の高度成長期の典型的な家族構成。祖母が同居している三世代家族というのは、当時の東京においては既に珍しい方であったようですが、この五人家族体制は、私が大学生の時に祖母が他界するまで、続くことになります。
 木造平屋建ての家に、人間五人と、多い時は犬一匹に猫二匹が同居していた、我が家。サザエさんの家をイメージして、「さぞや和気藹々(あいあい)と‥‥」と思われる方もいるでしょうが、それは違います。思い返せば、なかなかの火宅だったのが我が家。
 父親は、昭和一桁生まれ。子供の頃は軍国少年だった、とつぶやいていたことがあります。戦後、急に教科書に墨を塗らされた世代ということになりましょう。母親はその十歳年下で、戦後の教育を受けた世代。明るく華やかな性格の母親は、色々なボーイフレンドの中から、頼り甲斐がありそうな大人、ということで父親を選んだ模様です。
 が、結婚してみたら、様子が違ったのだそう。若い妻を大切にするかと思いきや、父は「俺が黒と言ったら白いものも黒」といった、昭和一桁の特性を如何(いかん)なく発揮。気に入らないことがあると、何週間も口をきかないなど、いわゆる「機嫌」というものの良し悪しがはっきりと見て取れるタイプでした。
 同世代の妻であったら、そんな夫にも黙って従うだけだったのでしょうが、我が母は自由な家庭に育ち自由な教育を受け、自由な性質を持つ人でした。そして二人の間の齟齬(そご)は次第に広がり、その結果は、私が中学二年の頃のある晩に露呈することとなります。
 それは確か土曜日で、私はラジオの深夜放送をこっそりと聴いていました。バレると怒られるので、ラジオの音を極小にして、布団をかぶって聴いていたのです。「イヤホン使えや」と言いたくなりますが、何に関しても気づくのが遅い、浅知恵の中学生でした。
 すると急に、親が私の部屋と兄の部屋を乱暴にノックし、
「ちょっと来て」
 ということに。あ、ラジオを聴いていたのがバレてしまったか‥‥と、しおしおと居間へ行くと、両親が鬼気迫る顔で座っています。ラジオくらいでそこまで怒ることでもなかろうよ、と憮然として立っていると、父親から開口一番、
「お母さんには他に好きな人ができたので、離婚することになりました」
 との宣言が。
 いきなりの宣言だったので驚きはしましたが、そこで私が思ったのが、
「まぁ、そういうこともあるだろうな‥‥」
 であったことは、よく覚えています。
「離婚なんてやめてっ」
 と泣き崩れる、といったことはまるでなく、
「はぁ」
 という感じで聞いていた。そういえば前日まで、母親は女友達と旅行ということで不在にしていたけれど、それがたぶん嘘だったんだな、と思いつつ。
 私の「そういうこともあるだろうな」という反応について、自衛のために「たいしたことではない」と思おうとしたのではないか、といった解釈も可能です。が、おそらくその出来事は、私にとって青天の霹靂(へきれき)ではなかったのです。母親はとにかく「楽しいこと」が大好きな人。学生時代のボーイフレンド達との交流も途絶えず、私も母親に男友達とのデートだか密会だか単なる食事だかに連れていかれたことが何度もある。「◯◯君にこんなこと言われた」「××君がこれ買ってくれた」といったモテ自慢もさんざん聞かされていたので、私にとって、「母親が父親以外の男性と交遊している」というのは、子供の頃から自然なこと。それが悪いとも思っていませんでした。だから「他に好きな人ができたので離婚」というのも、さもありなんと思ったのです。
 しかし、母の不貞をそのように受け止めたのは我が家の中では私だけで、翌日から、我が家は火宅と化しました。ただでさえ機嫌の差が激しい父親の機嫌が良くなるはずもなく、ほどなくして母親は自分の実家へ。私もついていって、しばらくそこから学校に通いましたっけ。いわゆる別居という状態でした。
 が、しばらくすると母親が、
「私、家に帰ることにしたから」
 と、言うのです。夫婦間でどういう折り合いがついたのかはわかりませんが、母と私は元の家に戻ることに。
 とはいえ木造の平屋ですから、部屋数が潤沢なわけではありません。夫婦が別の寝室に寝る余裕は無く、ついこの間まで別の男性と付き合っていたことが明らかな母と父は再び、同じ寝室で寝ることに。中学生ながら私は、
「よくわかんないなー」
 と、眺めていました。のみならず、案外平然と家事を続ける母を見て、「よくわかんないなー」という気持ちはますます膨らむ。
 しばらくしてから母が、
「どうして私がうちに戻ったかっていうとね」
 と言い出したので、
「なんでなの?」
 と訊けば、
「おばあちゃんが可哀想になったからなのよ」
 という回答。父の養母であり、既に九十歳近かった祖母。
「このおばあちゃんを残して私が出ていけないな、って。私が看取(みと)ってあげなくちゃって思ったのよね」
 ということではありませんか。
 私はそれを聞いて、「浮気する割に、高齢者への思いやりはあるのね」と意外に思ったのと同時に、「子供のためじゃないんだ」ということに少々、驚きました。夫婦仲が悪くなって離婚問題が浮上しても、「子供が可哀想」とか、「この子達がせめて大学に入るまでは」などと、離婚を思いとどまる夫婦の話はよく聞きます。夫婦のかすがいと言えば、普通は子供ではないのか。
 しかし我が母は、子供よりも「おばあちゃんが可哀想」ということで、家に戻った。それは祖母にとっては良いことだったと思いますが、私は「私達のためじゃないんだ」と、うっすら寂しいような気持ちに。「母であっても、女はやめない」という新しい感覚と、「姑は看取らねば」という古い感覚が、彼女の中にはまだらに存在していたのです。
 かくして一応は元のさやに収まって以降、母親の不貞に関する話題は、我が家で一切出てこなくなりました。相手が誰なのか、その人とは別れたのかといったことは、子供達には明かされなかったのです。
 が、私は知っていました。その後もそれっぽい電話はたまにかかってきていたし、まだ携帯電話が存在しない時代、親子電話の受話器を取った瞬間、その手の相手と母との会話を聞いてしまったことも。
「まだやってんだ」
 とは思ったものの、私は母親が何をしようといいのではないかと思っていたので、自由に泳がせていたのです。
 しかし今にして思うのは、「お父さん、可哀想」ということ。機嫌が不安定で、子供にとっても付き合いにくい人ではあったけれど、昭和一桁男にとって妻の不貞はつらかったであろう。それを最終的には許して最後まで一緒にいたわけで、大人になった今であるからこそ、
「お父さん、頑張ったね」
 と私は言いたい。
 母の不倫騒動において傷ついたのは、主に我が家の男性達だったのです。その後、母は六十九歳でほぼポックリ死をするわけですが、お通夜が終わった晩、兄と私が実家の居間で、しみじみ話をする機会がありました。大人になってから兄と二人でゆっくり話すなど初めてだったかもしれないのですが、その時に話題になったのは、母の過去について。
 母がほぼポックリ死をした時、父は既に他界していました。フリーとなった母には当然ながら仲良しのボーイフレンドが何人かいて、そのうちの一人・Aさんは死の直前までスキーだ海だと一緒に遊んでいた人。母の死の数日前も、実家でのホームパーティで料理をしていったし、他界したその日も我が家に来て、家族の誰よりも泣いていったのです。
 兄はその晩、
「あの離婚騒動の時の相手も、Aさんだったのかなぁ」
 と言いました。しかし私は、母親の男事情に詳しかったので、
「違うよ、Aさんはお母さんの学生時代の元カレで、今は単なる遊び友達。離婚騒動の時の相手は、絶対に別の人」
 と、断言した。
 私は、母のボーイフレンズ達にかなり会っていますが、騒動の時の相手とだけは、おそらく会っていない。騒動以来、母の女友達などにも訊いて、さりげなくその相手を探ってはみたものの、どうしてもわからなかったのです。
 兄は、Aさんが騒動の時の相手であろうとなかろうと、彼のことを快く思ってはいなかったようです。私はAさんのことを、「独り身になった母と遊んでくれて、実にありがたい。持つべきものは元カレ」くらいに思っていましたが、男である兄は、母親の遊び相手を自然に受け入れることはできなかった模様。
 そこで私は、兄と私の立場の違いを知ったのです。反対に考えてみれば、父親が女遊びをしまくっていて、そのガールフレンドの一人が母の死後、実家にもちょくちょく出入りしていたら、私も嫌だったかも。
 さらに兄は、
「おふくろはあの時、俺達を捨てようとしたんだもんなぁ」
 と、遠い目をしています。今まであの時、すなわち離婚騒動の時のことをきょうだいで話し合ったことはなかったけれど、兄は男であるからこそ、母親の不倫に傷ついていたことを、その時私は初めて知りました。
 母が男を作るということについて、母と同性である私は、「まあね、夫に不満を持つ主婦が他の男と付き合いたくなるっていう気持ちはわかる」と、中学生ながら同性ということで理解力を発揮していましたが、高校生だった兄は「捨てられた」と思っていたらしい。ああお兄ちゃん、可哀想‥‥。
 そこで私は、
「違うよお兄ちゃん!」
 と言ったのです。
「捨てたわけじゃなかったのよ。だってあの時も、『私についてくるか、ここに残るか、あなた達が決めなさい』って、お母さんが言ってたじゃない。一人で出て行ったわけじゃないのよ」
 と。
 離婚騒動以来、約三十年。そんな私の発言で、三十年間抱え続けてきた兄の傷が癒えたかどうかはわかりませんが、大げさに言うならば「ここでお兄ちゃんを救ってあげねば」と、四十代にして私は思ったのです。そして、「男の子にとって母親の存在って、やっぱり重要なものなのね」とも実感した。
 兄は能弁なタイプではなく、また親と仲が良いわけでもなかったので、いわゆるマザコンタイプとは最も遠いところにいると思っていた私。しかし兄は、母の不貞によって傷ついたが故に、母と一定の距離をとって生きてきたのかも。本当であれば、もっとマザコン気質だったのかもしれません。
 案の定、そんな兄は母の死に、私以上のショックを受けているようでした。たまに、
「おふくろのタンシチューが食べたいな‥‥」
 などと、私達が子供の頃に母親が作ってくれた料理を欲したりしているので、「なんと我が兄も『おふくろの味』とやらを恋しく思う人であったのか!」と驚いたりもしたもの。
 しかし兄の妻はあのタンシチューの味を知らないわけで、今となっては再現できるのは私だけ。兄が私の家に来た時に、作ってあげたりもしましたっけ。
 兄にとって母は、愛憎相半ばする存在だったのでしょう。兄の妻は、我々の母親とは正反対の、地味でおとなしいタイプの女性。母が巻き起こした騒動を見て、「こういう女は嫌だ‥‥」と痛感して、逆のタイプの女性を選んだのだと思う。
 では兄が母を嫌っていたのかといえば、やはりそうではありませんでした。どこかで兄は、母を求めながら生きていたのであろう。
 私にとっての母親は、「面白い生き物」でした。母親の友人から、
「お母様と順子ちゃんって、親子関係が逆転してるみたいよねぇ」
 と言われることがあります。つまり、母親はいつも若い娘のようにキャーキャー騒ぎ、私の方が落ち着いてそれを眺め、時に諌める、というような。
 確かにそういった面はあるのですが、母親がキャーキャーしていたからこそ、娘が母親と同等もしくはそれ以上にキャーキャーしていては収拾がつかなくなるため、私は落ち着いてしまったのではないか。私が大人になってからは、「この母親を好きにさせたら、どこまで行くのだろうか」という実験感覚で、思う存分遊ばせていました。
 そんな私もどこかで、普通の家族に憧れてはいたのです。普通とは何かという問題になるとまたややこしくなりますが、私の時代の普通のお母さんというのは、すなわち「女を引退した人」。昭和のホームドラマにおける京塚昌子的なイメージです。
 常に家にいて、家族を待っていてくれる、お母さん。自分がかつて「女」であったことなど微塵(みじん)も匂わせない、生まれた時からおばちゃんであり続けたような存在感が、私の憧れる「お母さん」です。
 対して我が母親は、死ぬまで「女」でした。離婚騒動の時に言った通りに姑を看取り、自分が裏切った夫も看取り、家事全般もきちんとこなしていたものの、それ以外の面では奔放に生きていた。モテること、つまりたくさんの異性から女として認証されることが、彼女にとってのアイデンティファイだったのだなぁ、と今になると思うのですが、そんな「母と女の両立」を実践した母親を持つと、子供達は色々と考えるようになる。
 結果、兄は「静かな女性と早めに結婚」という自衛手段をとりました。そして私は、家庭というものに対する不信感を常に持つようになったのだと思います。結婚しようと子供を持とうと、女は女であり続ける。同じように、男は男であり続けるのであろう。一つ家に住み、同じものを食べていても、家族などというものは心がバラバラだったりするのだ。母の娘である私もまた、どうなるかわかったものではない、と。
 その後私は結婚せずに三十代半ばとなり、「負け犬の遠吠え」という本を書きました。その本の中で私は、自分はなぜ結婚せずにここまできたのかを縷縷(るる)、説明したわけですが、その時はまだ両親が生きていたので書くことができなかったのが、この火宅事情なのでした。結婚や夫婦というものへの不信感を抱える一方、どこかにある幻の国にいるらしい「仲の良い夫婦」や「女ではないお母さん」に対する強烈な憧れも、持っている私。そんなもやもやとした感情がいつもどこかから染み出しているからこそ、私は結婚から遠ざかったのではあるまいか。
 ‥‥と、自分が結婚できなかったのを親のせいにするのもどうかと思いますが、その方が楽なので、そうしているのです。
 家族がいなくなった今、落ち込んだり迷ったりすると、私は心の中で、往年のハナマルキのCMのように、「お母さーん」と叫んでいます。その時の「お母さん」が、本物の我が母親なのか、それとも京塚昌子のような、幻想の中にのみ存在する日本の理想のお母さんなのか、よくわからない私。おそらくその叫びは、どこにも届いていないのだろうなぁと思います。

著者情報

酒井順子(さかい じゅんこ)

高校在学中から雑誌にコラムを発表。
立教大学社会学部観光学科卒業後、広告会社勤務を経て執筆専業となる。
2004年『負け犬の遠吠え』で婦人公論文芸賞、講談社エッセイ賞をダブル受賞。
著書に『下に見る人』『ユーミンの罪』『地震と独身』『裏が、幸せ。』『子の無い人生』『ananの嘘』『忘れる女、忘れられる女』など多数。

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