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Shueishagakugei

謹んで「熊本地震」災害のお見舞いを申し上げます。

熊本地震により甚大な被害が発生いたしました。
お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りいたしますとともに、
被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。
一日も早く平穏な日々が戻りますよう、そして復旧がなされますよう心よりお祈り申し上げます。

(株)集英社

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謹んで地震災害のお見舞いを
申し上げます。

東日本大震災により被災された皆様に、心からお見舞い申し上げます。
また、被災地等におきまして、救援や復興支援など様々な活動に全力を尽くしていらっしゃる方々に、深く敬意と感謝の意を表しますとともに、一日も早く復旧がなされますよう心よりお祈り申し上げます。

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Nonfiction

読み物

家族終了 酒井順子

第1回 はじめに

更新日:2018/02/14

 かねて病気療養中だった兄が他界したことによって、私にとって「家族」だった人が全員、いなくなりました。自分が生まれ育った家族のことを「生育家族」、自分が結婚などをすることによって作った家族を「創設家族」と言うそうですが、生育家族のメンバーが全て、世を去ったのです。
 私は、
「家族って、終わるんだな‥‥」
 と、思ったことでした。兄は妻と一人の娘を遺(のこ)しましたが、彼女達は兄の創設家族のメンバー。私にとっての生育家族ではありません。そして私は、同居人はいるものの婚姻関係は結んでいませんし、子供もいない。「家族終了」の感、強し。
 私が三十代の時に父が、四十代の時に母が他界した後は、生育家族で遺されたメンバーは兄と私。きょうだいというものは、成長するにつれて次第に他人めいてくるのが世の常です。兄と私も、仲が悪くはないものの特別に仲良しだったわけでもなく、必要最低限のやりとりをする程度でした。あえて、
「私達が育った家族ってさ‥‥」
 などと、生育家族について語り合うようなこともなく、時は流れた。
 しかし兄がいなくなってみると、兄の不在は私にとって、我が生育家族の消滅と同じ意味を持つことに気づきました。
「うちの肉じゃがって、牛肉だった? 豚肉だった? ていうかそもそも、肉じゃがって食べたことあった?」
 とか、
「何でうちって、お年玉っていう風習が無かったの? ケチだったから? それとも何かのポリシー?」
 といった、どうでもいいことながらちょっと気になる家族の疑問を聞く相手が、もういない。我が生育家族の記憶は、私の貧弱な海馬にしか、存在しなくなったのです。
 子供がいる人であれば、自分の創設家族の中に、生育家族の記憶を注入することによって、家族の魂をつないでいくのでしょう。自分の母親が作ったようなハンバーグを自分の子供にも食べさせて、家庭の味をつなげていく。はたまた、言葉遣いやら行儀作法に教育方針、そしてタオル交換の頻度や年越し蕎麦をどのタイミングで食べるかといった細かな風習も、配偶者とすり合わせをしつつも、自らの創設家族に受け継いでいくのだと思う。
 しかし私は創設家族を持たないわけで、家族の記憶は、私をもって絶たれることになります。兄の娘はまだ幼く、兄がその体内に持っていた生育家族の記憶を、さほど受け継いでいるわけでもなかろう。私が死ぬ時に、私の中だけで温めていた家族の記憶も完全に無くなるのだなぁ。
 ‥‥と思うわけですが、ではそれが悲しかったり寂しかったり無念だったりするかといえば、「別にそうでもない」のでした。そうなってしまったものは、もう仕方がなかろう。名家であるわけでもなければ、特殊な技能や看板を受け継ぐ家でもないのであるからして、消えていってもどうということは無いなぁ、と。
 そして今、日本では、このような感覚を持つ人が少なからぬ数で存在しています。「家族終了」の現場に立ちつつも、家族の記憶が消えていくことにさほどの痛痒(つうよう)感を覚えない私のような人がたくさんいるからこそ、日本の人口は減っていくのです。

 日本人はもともと、「所属」という行為に幸福感を見出していたのだと思います。職場の一員、地域の一員といった、何らかの団体の構成員であることが、つつがなく生きていくための基本条件。中でも、生きていくために最も大切なのが、家族という団体に所属することだったのではないか。
 昔の小説や映画で昔の言葉遣いに接すると、家族という団体のつながりを絶やさないようにするために、日本人がいかに努力をしていたかがわかります。たとえば「結婚する」ことは、「身を固める」と、言われていました。結婚していない人というのは、まだ「身」がぐにゃぐにゃの状態であり、配偶者を得て初めて、人には一本の筋が通るのだ、と。
 親達は息子に、
「早くお前も身を固めろ」
 と、プレッシャーをかけました。息子が創設家族を持たないことには、家族はつながっていかない。「結婚をしていない者は一人前ではない」と絶えず知らしめることによって、息子の結婚を促したのです。
 また親達は、娘を結婚させることを「片付ける」と表現しました。
「ようやくうちの娘も片付きましてね」
 とか、
「うちの娘はまだ片付かなくて、困ったもんです」
 と、娘を持つ親は言ったもの。年頃になっても独身の娘が生育家族の中に身を置き続けるのは、不自然かつ不幸な状態。適齢期の娘は、早々に別の家庭に移動させる、すなわち「片付ける」べき存在でした。
 今使用したら、ポリティカル・コレクトネスにうるさい人から文句をつけられかねない、これらの表現。しかし昔の大人達は、切っ先鋭い言葉をあえて使用することによって、独身者がいつまでものびのびと生きられないようにしました。若者は、適切な段階で生育家族から創設家族へと、所属先を替えなくてはならなかったのです。
 子供が創設家族を持たない限り、家は続かない。だからこそ昔の親は子供にプレッシャーをかけたわけですが、なぜ昔の人は、それほど「家を存続させる」ことにやっきになっていたのか、我々には理解しづらいものがあります。特にはっきりとした理由が説明されるわけでもなく、「そういうものだから」ということで男の子は時期が来たら身を固め、女の子は別の家に片付いていき、子を産んだ。子が産まれなかったら養子をもらうなどして、なりふり構わず家族を続けようとしたのです。
 家を存続させるために養子をもらうという行為も、今となってはあまり見られないものですが、昔は当たり前のようにやったりとったりしていたようです。ちなみに私の父親も、子供がいなかった酒井家に、男の子が二人いた親戚筋からもらわれてきた身。実の両親も近くに住んではいたものの、父は年の離れた養親のもとで育ったわけで、
「お父さん、大変だったね」
 と、今だったら言ってあげたいところです。
 しかし、我が父が実の親から離れ、寂しい思いをしてまで継いだ酒井家も、ふがいない娘によって今、勝手に「家族終了」などと宣言されてしまっています。時代の変化とはいえ、二重に可哀想であることよ。
 この状況を見ると、祖父母世代と我々世代の間で、家族というものに対する感覚が激変したことがわかるのでした。明治生まれの祖父母は、養子という接ぎ木をしてでも、家を存続させなくてはならないと思ったわけです。その養子はやがて結婚し、男の子と女の子、すなわち兄と私が誕生。めでたく一家は存続すると思ったでしょうが、そうはうまくいかなかった。
 祖父母世代が抱いていた「家を続けなくてはならぬ」という思いはなぜ、我々世代で消滅したのか。‥‥と考えてみますと、そこには何をもって幸福とするか、という感覚の変化があるのだと思います。祖父母の時代は、「所属」することがそのまま、幸福でした。幸福は個人として得るものではなく、家族なり地域なりといった所属団体として得るものだったのではないか。だからこそ、団体が消えてしまっては幸福を受け取ることもできなくなると思われ、家をとにかく続けていかなくてはならなかった。
 しかしそこから、時代は変わります。第二次世界大戦時、日本人は「お国のため」と、最も上位の所属団体である国への挺身(ていしん)を求められ、その団体のために死ぬことが幸福だとすら思わされたわけです。しかし敗戦によってアメリカから個人主義がどっと入ってきて、個人としての幸福を追求してもいいらしい、と日本人は思うように。「所属」することって、実は幸福でも何でもなかったのではないか。所属って、実はものすごく窮屈なものだよね。‥‥と、日本人の本音が漏れてくるように。
 かくして戦後の日本人は、見合いではなく恋愛で結婚するようになったり、女も働くようになったりと、個人としての楽しさや充実を追求するようになりました。私の両親は、その時代の影響をたっぷり受けた世代です。父親は、子供の頃は「天皇陛下万歳」系の軍国少年だったのが、敗戦により一気にポリシーをチェンジ。大学時代は米軍基地でアルバイトをして英語を覚え、当時の日本では法外なバイト代を得たといいます。
 父親よりも十歳年下の母親は、戦後の民主教育を受けて育った世代であり、「個人的幸福の追求」に躊躇(ちゅうちょ)をしないタイプ。そんな二人が出会って恋愛→結婚となったわけですから、産まれた子供達に対して、「家を続けていくことが何よりも大切」という教育は当然、しなかった。
 家の継続が日本国中から求められている天皇家を見てもわかる通り、家を続けることは、難事業です。今上天皇は三人の子を持ち、「これで天皇家は安泰」と当初は思ったかもしれませんが、次男以外は晩婚であった上に、天皇家を継ぐことができる次世代の男子は、三人の子からやっとこ一人しか生まれていません。次男の妻が、齢四十にならんとする頃にイリュージョンのようにして産んだ貴重な男子が、今や皇室の命綱です。
 日本で最も「家の存続」が求められている天皇家ですらそのような状態なのですから、普通の家庭でボーッとしていたら、家など続くものではありません。私の友人を見ても、きょうだい全員が結婚して子供を持っているような家は、レアケースと言っていいでしょう。
 家を続けることの難しさがわかっていたからこそ、昔の日本では、男と女の育て方、そして長男と次男以下の育て方を、しっかり分けたものと思われます。長男には「家を継ぐ」存在としての、そして次男以下の男子、および女子に対しては、「いずれ家を出て行く」存在としての自覚を、幼いうちから叩き込んだのです。
 しかしそんな教育も、戦後に個人主義が流入してからは、薄められました。家制度に不満を持っていた人々は、個人としての充実を追い求めるように。家などに縛られず、ラクな方へ、楽しい方へと人々は流れていきます。
 我が家もまた、そんな時代に若者二人が結婚してできた、昭和の高度経済成長期の家族だったのです。さらに前の時代であれば、若者は親が決めた人と結婚したことでしょうが、我が両親は自由恋愛の結果、結婚。親の反対もあったらしいのですが、親の意見など、恋する若者にとっては何の意味も持たない。ただ「一緒にいたい」という気持ちに従ったわけで、そこに「家の存続」という頭は無かったことでしょう。
 私の子供時代を振り返ってみても、家意識を親から植えつけられたことはありませんでした。兄にどのような教育がなされたかはよく知りませんが、少なくとも、
「あなたは長男なのだから、この家を継がなくてはいけない」
 などと切々と説かれていたという記憶は、無い。もちろん私に対しても、「他家で良い嫁になることができるように」という教育は、全くなされなかったのです。
 ただ一つ記憶にあるのは、母親が、
「女の子は結婚したらどのみち家事をし続けなくてはならないのだから、今からすることはない」
 と、私に家事を手伝わせなかったことです。
 我が母も、「娘はいずれ嫁にいくものだ」とは思っていたようなのですが、
「だからこそ結婚して恥をかかないように」
 と、家事を仕込むという感覚はなかったらしい。「家事をし続ける人生は可哀想だから、今からすることはない」との発想となったのは、時代のせいなのか、我が母親の個性のせいなのか。
 そんな母親がさらに娘に説いたのは、
「とにかく、遊んでおくように」
 ということでした。
「私も学生時代は思いきり遊んでとても楽しかったから、あなたもそうしなさい」
 とのことで、思春期の娘に対しても、何時に出て行こうと何時に帰ってこようとOKという、「楽しくなければ人生じゃない」という、フジテレビばりの珍しい教育方針を敷いたのです。
 お陰で私は、一九八〇年代を楽しく遊んで過ごしたわけですが、あまりに自由すぎると、子供はかえって自制します。ギリギリまで攻めながらも警察のやっかいになるようなことはなく青春期を乗り切ったのは、「子供の自主性に任せ切る」という親の蛮勇が功を奏したせいかもしれません。そして「女の子は家事などしなくてもよい」という教育も、
「とはいえ、自分でしなきゃしょうがないわな」
 という思いを娘に起こさせたのであり、今の私は別に家事嫌いというわけではない。
 結果オーライとも言えないことはないわけですが、しかしこの「自己責任において個人の幸福を追求せよ」という親の方針は、こと「家族の創設」という件に関しては、何ら効果を発揮しなかったようです。若者にとって個人の幸福の追求とは「ひたすら楽しいことをする」ということを意味したので、おしゃれをしたり異性と交遊したりスポーツをしたり旅行をしたり、といった行為に私は青春期のあらん限りの力を注ぎました。
 が、母の時代と私の時代で異なるのは、母の頃は「人は皆、結婚するもの」という意識が強固であったことです。女性が青春期にいくら楽しく遊んでも、二十代前半にもなれば「とはいえ、女が生きていく道は結婚しかないし」と、何らかの方法をもって「片付いて」いったのが、母の時代。
 対して私の時代になると、「所属」がもたらす幸福よりも自由による幸福を重視する傾向が強まり、結婚は先延ばしにされました。我が母は、「順子も私のように、年頃になったら適当に結婚していくことでしょう」と、思っていたと思いますが、そうはいかなかった。
 私の時代は、女性が楽しいことを追求しようと思えば、いつまでも続けることができたのです。「人は皆、結婚するもの」という意識は薄れ、「あー楽しい、らんらんらーん」と踊り続けている人を、親すらも止められなくなったのです。
「家族を作る」ということは、「楽しいことを諦める」ということでもあります。「もうちょっと、諦めたくないなぁ」などと思ってだらだらと踊り続けていたらあっという間に年をとっていき、気が付いたら五十代。昔であったら、もうそろそろ寿命が尽きてもおかしくはない年頃になっています。
 楽しいことを我慢して子育てをしていた友人達のもとでは、そろそろ立派な息子や娘が育ち上がってきました。息子達や娘達は、電球を替えてくれたり料理を作ってくれたり食事を奢(おご)ってくれたりと、すっかり頼もしい若者に。創設家族が完熟し、そろそろさらなる分裂をしていこうか、という頃合いになってきたのです。
 一方で私はといえば、生育家族がいなくなった時点で、「家族終了」。思えば今までずっと、誰かしらが存在していた家族がいなくなるという経験は、初めてのこと。
 だからこそ私は今、家族というものを改めて考えてみようと思うのでした。私にとって、家族とは何だったのか。この時代の日本において、家族はどのように機能しているのか。‥‥家族終了の鐘が鳴り響く中で、家族がいないからこそ書くことができることが、あるのかもしれません。

著者情報

酒井順子(さかい じゅんこ)

高校在学中から雑誌にコラムを発表。
立教大学社会学部観光学科卒業後、広告会社勤務を経て執筆専業となる。
2004年『負け犬の遠吠え』で婦人公論文芸賞、講談社エッセイ賞をダブル受賞。
著書に『下に見る人』『ユーミンの罪』『地震と独身』『裏が、幸せ。』『子の無い人生』『ananの嘘』『忘れる女、忘れられる女』など多数。

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