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美麗島プリズム紀行 乃南アサ

第23回 「布袋戯」──驚異的進化と大きな課題(最終回)

更新日:2020/07/15

 かれこれ10年近く前、当時、日本に留学していた台湾人の学生に、台湾にいた頃はどんなテレビ番組をよく見ていたのと尋ねたことがある。
「ポテヒですね」
 そう間を置かず、彼は広げた紙の上に「布袋戯」という文字をさらさらと書きながら答えた。
「ポテヒ?」
「台湾語です。布袋劇ともいいます。人形劇なんですけど、あれが僕は、すっごく好き。面白いんだよ。こっちにもDVD持ってきてて、何回も観てるんです」
 真顔で言う彼は、当時既に30歳を過ぎていたと思う。そんな年齢の男性が、人形劇が好きだなどと言うものだから、私は「ふうん」と頷きつつも、内心ではつい首を傾げてしまっていた。布袋という字面から、袋状になっている人形を手にはめて、指を使って人形の手をぱたぱたと動かしたり、身体を傾けて人間と会話してみせるような、ごく単純なものを思い浮かべたのだ。日本でも幼児向けのテレビ番組などに、そういう人形はよく登場するし、それが可愛らしい動物だったりすることも珍しくなく、子どもたちは大喜びする。だが、ああいったものを立派に成長した成人男性が「すっごく好き」と言うものだろうかと、奇妙な印象を受けた記憶がある。
 それからしばらくして『戯夢人生』(1993年製作)という映画を観る機会があった。台湾を代表する映画監督の一人である侯孝賢(ホウ・シャオシェン)による映画というところに興味を持って観るつもりになったのだが、いざ観始めてみると、それこそ布袋戯の名手であり台湾の人間国宝だった李天禄(リー・ティエンルー)という人物の半生を描いたものであり、李天禄本人がナレーションを担当しているという作品だった。
 布袋戯って、これのことか。
 日本統治時代の頃の台湾の家族関係や、その頃の風俗などといった作品世界に引き込まれる一方で、私は前述の留学生のことを思い出していた。彼が大好きだと言っていた布袋戯が、これなのかと思った。映画に登場する人形は確かにあの時、私が思い浮かべたものと、そう違わないものだった。とはいえ、幼児向けの単純な動物などではなく、どちらかといえば京劇の役者を模したような人形だ。だが基本的な構造としては、やはり手袋のように中が空洞になっていて、そこに片手を入れて、指で頭や手などを操るというものだ。
 この人形劇は、もともとは神さまに奉納するために寺廟などで演じられるものだったという。台湾へは日本統治時代よりも前の清時代、いわゆる閩南(びんなん)地方と言われる福建省南部の地域から移り住んできた人たちが持ち込んだものだと言われている。頭部は木製で他の部分は布で出来ている小さな人形は、持ち運ぶのも簡単だっただろう。故郷から命がけで海を渡り、未開の地に入った人たちは、まず上陸した地に媽祖廟を建てて、無事にたどり着いたことを感謝し、それから新しい土地で生きていかれるようにと、様々な廟を建てて神さまを祀り、ことあるごとに祈りを捧げ、祭を行ってきた。その都度、上演された布袋戯は、神さまへの感謝であるのと同時に、人々が故郷を懐かしむ一つのきっかけにもなったろうし、大きな心の慰めになり、また楽しみにもなっていたに違いない。
 当時、布袋戯の人形遣いたちは、中国の古典文学や詩歌などから題材をとって物語を作った。舞台の背後で演奏する楽器にもそれぞれの特色があったようだ。哀感を誘うゆったりと優雅なものもあれば、銅鑼を打ち鳴らすような賑やかなものもあった。ことに庶民には、血湧き肉躍る活劇ものが人気だったという。こうして布袋戯は、中国大陸からの移民が増えるのと比例して、台湾全土に広がっていった。土地ごとに様々な特徴を持つ流派も誕生して、最盛期には台湾全土に1000以上もの布袋戯劇団が出来るまでになったという。
『戯夢人生』で描かれている李天禄という人物は1910(明治43)年に生まれ、8歳のときから人形遣いとして生きてきた。その頃の布袋戯は町や村を移動しては、寺廟以外の場所でも簡単な舞台を組んで演じていたようだ。娯楽の少なかった時代、布袋戯の劇団がやってくると近在の人たちが集まってきては、楽しげに観ていった。
 そのことに目をつけた日本人は、この布袋戯を庶民への啓蒙活動に利用することを思いついたらしい。布袋戯は基本的に台湾語(閩南語)で演じられるものだが、その時代には「鞍馬天狗」「水戸黄門」といったものが演じられることもあったという。そして皇民化運動が盛んになってくると、『戯夢人生』の中には国民服を着た人形が登場して、台湾人の見物客に向かって、何かしら気持ちを鼓舞するような台詞を言っているシーンがあったように記憶している。芸で生きる人たちは、いつの時代も弱い立場だ。「そんな布袋戯など出来るか」と突っぱねることなど、とても出来なかったに違いない。
 やがて日本による統治時代が終わると、代わって中国国民党による支配の時代に入る。蔣介石率いる国民党政府は、二・二八事件などで台湾知識層を激しく弾圧したばかりでなく、実はすべての舞台芸術活動と宗教活動も抑圧したという。要するに、理由や目的は何であれ、人が大勢集まる行動のすべてを警戒し、規制したのだろう。布袋戯は基本的に神さまに捧げられてきたものなのに、政府は布袋戯を屋外で演じることを禁じてしまう。こうなると、劇場で上演するしか方法はない。それまでは人々の信仰と日常生活に密着しており、どこででも気軽に目にすることが出来ていた布袋戯が、このときに庶民の暮らしから切り離され、一定の距離が生まれてしまったのかも知れない。しかも国民党政府は、台湾での公用語は北京語と決めて、日本語はもちろん、台湾語の使用さえも厳しく禁じた。劇場という閉ざされた空間で、これまで通りの布袋戯がうまく演じられたとは思えない。
 寺廟での上演が再び許されるようになったのは1950年のことだ。だが、屋外での上演が禁じられていた数年の間に、時代は確実に変わっていた。白色テロと呼ばれる恐怖政治の時代に入って、人々は常に緊張を強いられていたし、人目を気にするようにもなっていただろう。どこで誰に見張られているか分からない。時として根も葉もない噂を立てられ、言いがかりをつけられて、それを密告されかねない時代だった。昔ながらの長閑(のどか)でゆったりした、台湾語の布袋戯を観ながら大きな声で声援を飛ばしたり笑い合うような、そんな時代ではなくなっていたのかも知れない。布袋戯にとっては大きな受難の時代だったに違いない。
 そうこうするうち、1960年代に入って、今度はテレビの時代がやってくる。これまで、時代に合わせて演技の方法を柔軟に進化させてきた前述の人形遣い・李天禄も、テレビでの布袋戯に乗り出したが、残念ながら人気は出なかったという。その代わりに、李天禄は海外での公演を成功させたり、自らが俳優として映画に出演するなど、新たな活躍の場を広げていった。こうして彼は伝統的な布袋戯の人形遣いとしての認知度を上げていき、台湾政府から人間国宝の称号を与えられるまでになる。
 それにしても布袋戯は、どうしても台湾語でなければ合わないものらしい。あまりにも人々を抑圧しすぎてはまずいという考えが働いたのだろうか、政府は、テレビ布袋戯に限って、特例的に台湾語の使用を許可することにした。日本統治時代にも禁止されることなく、自分たちの母語として使い続けてきた言葉を、ようやくブラウン管を通して聞けることになったとき、生活のすべての部分で我慢と緊張を強いられてきた人たちが、どれほど懐かしく思い、心を揺すぶられたかは想像に難くない。
 そんな中で1970年から放送が開始されたのが黄俊雄という人物によって製作された『雲州大儒俠』という布袋戯だ。これまでの古典的な布袋戯とは異なる斬新な音楽と、テレビならではの演出効果により、『雲州大儒俠』はたちまち人気番組となったという。何しろ最高視聴率97パーセントを記録したというのだから、並大抵のことではない。その番組を観なかったのは生まれたばかりの乳飲み子くらいということだろう。
『雲州大儒俠俠』の登場人物の中でも、特に「哈買二歯」(ハッペヌンキィ)という坊主頭で前歯が出ている三枚目キャラクターが子どもたちから爆発的に支持された。「哈買二歯」に変身出来るおもちゃが飛ぶように売れ、幼い子たちは誰もが「哈買二歯」の真似をしたという。番組が放送される時間には街中から人の姿が消え、学生や社会人には無断欠席、無断欠勤まで増えたというから、まさしく社会現象となっていたのだろう。


1970年から始まった『雲州大儒俠』に登場し、子どもたちの人気者になった「哈買二歯」(ハッペヌンキィ)。


「哈買二歯」(ハッペヌンキィ)の人気は凄まじく、男の子も女の子も真似をしたがったという。

 ここまで熱狂的に受け入れられてしまうと、当然のことながら国民党政府は危機感を抱く。特例としてテレビ布袋戯だけに台湾語を許可してきたが、これほどまでに人気が出てしまっては、台湾人のナショナリズムがかき立てられる恐れがあると心配した。その結果、『雲州大儒俠』は1974年、「農業活動への関心に影響を与える」という、今一つよく分からない理由をつけられて放送禁止にされてしまう。再び放送出来るようになるのは1980年代に入ってからのことだった。何かに楽しみを見つけようとすると、すぐに打ち砕かれる。希望が見えそうになると閉ざされる。この時代の台湾のことを調べていると、そんな出来事が非常に多いことに気づかされる。
 1975年に蔣介石が総統職に就いたまま病死する。享年87。父親の衰えが目立つようになった頃からは、蔣介石の長男である蔣経国(1910~1988)が実質的な後継者として重責を担っていたが、1978年、正式に総統職に就く。少年期から苦労して育ち、父親との葛藤もあり、ソ連留学時代には貧しい農村や重機械工場での強制労働も経験してきた蔣経国は、国民党政府が中国大陸に返り咲くのは難しいと判断される時代に入って、難しい舵取りを任されることになった。蔣経国の評価は大きく分かれるが、とにかく蔣介石に比べればずっと台湾と台湾人に目を向けるようになっていたことは間違いがない。彼が死の前年である1987年に「台湾に住んで40年。私も既に台湾人だ。そして中国人でもある」と述べた話は有名だ。
 そんな蔣経国時代の1984年、『雲州大儒俠』の続編として新しく『七彩霹靂門』という物語がテレビでスタートした。このときから、布袋戯は新たに「霹靂布袋劇」と呼ばれるスタイルを生み出した。番組制作をしている会社が「霹靂社」という社名だったことから、そう呼ばれるようになったのだが、その大きな特徴は「群像劇」であり、また超時代的なストーリーで、さらに美形の人形が登場するというものだった。
 それまでの布袋劇には一人の主人公がいて、その周囲に仇役や道化役などがいるというのが基本的なスタイルだったようだが、『七彩霹靂門』を境に登場人物が増え、物語も複雑になると共に、一気に華やかさを増した。まず人形そのものが違う。面長で中性的な顔立ちに西洋人なみの大きな瞳を持ち、煌びやかな衣装をまとった人形が、凝った造りのスタジオの中で、飛んだり跳ねたりするかと思えば、何しろ人形だけに、いとも簡単に宙を飛び、身体を回転させ、地面に投げ出され、再び立ち上がって悪と戦う。人の「手」が人形の中に入って動かしているという感じではなくなっていった。この「霹靂布袋劇」は成長を続け、ついには衛星テレビにチャンネルを持つまでになる。その普及率は、何と99パーセントというのだから、台湾にどれほど浸透し、また支持されているかが分かるだろう。
 技術の進歩と共に、映像世界での布袋戯はいよいよ独特の世界を創り上げるようになっていった。たとえばCGの生み出した幻想的な風景の中を、まるで漂うように自由に移動したり、アニメーションの中にも溶け込んだ。時空を超え、手にした杖から光線を発し、妖術を使い、爆撃を受けて吹っ飛んだかと思えば、カンフーらしい動きを駆使して窮地から蘇り、そして恋もするといった具合だ。ファンタジーの要素があり、そこに中国的な要素も残っている。
 冒頭、「大好き」と言っていた留学生の青年が指していたのは、この時代以降の布袋劇のことなのだということが、やっと分かった。
 それにしても、ここまで変わってしまうと、昔ながらの布袋戯は、もはやなくなってしまったのだろうか。
 台湾を旅している間に、そんなことを考えるようになった。寺廟の多い台湾で、旅をしている間には祭が開かれているところに出くわすこともままあるのだが、未だに布袋戯が演じられているところを見たことがない。観光地などで、土産物店の店先におもちゃの布袋戯人形が売られているところは何度か見るのだが、それは大抵うっすら埃を被っているほど古ぼけていて、あまりにも安っぽい作りな上に魅力的でもなく、今どきの子どもたちが手にとって遊んでみたいと思うようには見えない。
 どうにかして布袋戯のことをもっと知ることは出来ないものだろうかと思っていたときに、台北にある「台原亜洲偶戯博物館」(現在休館中)というところに案内してもらった。小さな博物館だが、アジアの様々な人形劇が展示紹介されており、そのワンフロアーが台湾の布袋戯に割かれていて、かつて、ごく小さな人形が演じていた古い時代のものから、子どもたちが大好きだった「哈買二歯」まで、時の経過と共に分かるようになっている。予約をしておいたり、また子どもたちが学校単位で訪れるときなどには布袋戯の実演もあるようだが、前触れもなく訪れた旅行者は、そういうものを観ることは出来なかった。


台北の迪化街の側にある「台原亜洲偶戯博物館」では、各国の操り人形などを見られる他、布袋戯も多く展示されている。どちらも活劇ものに使ったと思われる。


清朝では男性は弁髪が普通だった。こういう人形の頭は、その弁髪を意識しつつアレンジしてある印象。


かつてはこういう箱に簡易舞台と人形を入れて、町や村を移動して布袋戯を見せる劇団があった。


「憨童」とあるから道化役の少年といったところだろうか。アクの強い顔をしている。


関羽。京劇の決まり事として、赤く塗った顔は勇敢なヒーロー。関羽はその代表だろう。


布袋戯の舞台。もともと神さまへの捧げ物だったからか、寺廟の雰囲気を持っている。

「僕の、台中の友だちが布袋戯の人形を作っているよ」
 あるとき、知人が教えてくれた。以前から私が「陳先輩」と呼んで何かと世話になっている陳永旻氏の、アマチュアバンド仲間が布袋戯の人形を作っているというのだ。
「人形作りの専門家というわけではないと思うけど、色々なところから注文が来るみたいだね。訪ねていけば、きっと見せてもらえるよ」
 布袋戯そのものは観られなくても、今現在も作られている人形だけでも見ることが出来れば有り難いと思った。私は、機会があれば是非ともその人形を見せていただきたいと陳先輩に頼んだ。
 そして、チャンスは意外と早く訪れた。
 ある夏、陳先輩の車で台湾南部に向かったときのことだ。途中で台風の直撃を受けて急遽、予定を変更することになった。そのときに陳先輩が、友人に連絡を入れてくれた。
「今日は台風でどこにも出かけないから、今から行けば人形を見せてくれるそうだよ」
 暴風雨にさらされながら高速道路を走り抜け、台中市内に入って一般道に下りる頃、台風はいつの間にか方向を変えたらしく、猛烈な勢いでフロントガラスに叩きつけていた雨粒もぴたりと止んだ。雨上がりのしっとりした空気の中で、田畑の緑が目にしみる。
 そうしてたどり着いた郊外の一軒家で私たちを待っていてくれたのが、陳先輩の友人・林煙朝さんだった。ニコニコと笑いながらアトリエらしい部屋に案内してくれる。庭石を踏んでついていくと、そこには美しい焼き物や茶器などと共に、いくつもの人形が飾られていた。広いテーブルの上に置かれた布袋戯の人形や、壁に飾られているものなどを見て、思わずため息が出た。美しい。それに、何とも言えない存在感がある。おそらく林煙朝さんは、人形のコレクターでもあるのだろう、古そうな人形も飾られていた。そして、自らが手がけたという人形をいくつも見せてくれた。どれも基本的には京劇をイメージしたものであることがよく分かる。隈取りに関しては基本を踏まえながら、林煙朝さんが自由に入れているということだった。林煙朝さんは、他にも獅子舞の獅子などを手がけたりもするという。


台中の林煙朝さんのアトリエにあった布袋戯の人形。布地の雰囲気や大きさなどから、古いものと思われる。京劇の登場人物を模したものであるらしいことが分かる。


やはり林煙朝さん製作による面。祭の行列などで使うのだろうか。


林煙朝さん。自作の布袋戯人形を構えていただいた。人形の服装はやはり京劇風だが、顔の隈取りは独自のもの。


こういった隈取りは、中国伝統の京劇などでは見かけない。隈の入れ方、色彩の選び方も独特で、林煙朝さんのオリジナルとか。


かなり古い布袋戯の人形。縫製も貧しく粗末な感じだが、これでも当時は大活躍したに違いない。

「こういう人形の、需要は多いんでしょうか」
 こちらの質問に、林煙朝さんは陳先輩を通して「そうでもない」という意味のことを言ったと思う。本業ではなく、あくまで趣味でやっているから続けていられるような雰囲気だった。
 昔ながらの布袋戯。
 それを目にする機会は間違いなく少なくなっている。それは仕方のないことなのだろうか。このまま消え去っていく運命なのだろうか。


時代変わって今、大人気の布袋戯の人形。際だって大きくなり、上から下まで豪華絢爛。


背景の絵と重ね合わせると、魔界の使いか何かの役どころか。


布袋戯の人気はすっかり定着しており、ショッピングモールなどで展示会をしているところに出くわすことも珍しくない。布袋人形というより、もうフィギュアといった感じ。


多分、ヒーローなのだろう。髪の色と服装とがマッチしており、憂いを含んだ目元に特徴がある。布袋戯の番組内では、こういう人形が宙を飛び、妖術を使い、激しいアクションを見せる。

 2018年『紅盒子』という映画が公開になった。監督は楊力州(ヤン・リージョウ)、監修として既出の候孝賢が加わって、陳錫煌(チェン・シーホァン)という人形遣いを10年にわたって追い続けたドキュメンタリー映画だ。しかも、この陳錫煌という人物こそが、かつて観た『戯夢人生』で取り上げられていた人間国宝の李天禄の長男であり、父亡き後も伝統的台湾布袋劇を今日まで牽引してきた、国宝級の存在だという。
 日本では2019年、『台湾、街かどの人形劇』というタイトルで公開された。その冒頭のシーンから、目を吸い寄せられた。年老いて乾いた手が、ゆっくりと動く。ぴんと伸ばされた人差し指と、絶妙かつ繊細に動く親指、そして、中指、薬指、小指とが流れるように動くのだ。それが人形遣い、楊錫煌の手だった。人形遣いは、こんなにも微妙で繊細な手の動きをするのか。この動きこそが、小さな布袋人形に生命を吹き込むのだということが、これほどまでに強く感じられることはなかった。テレビの中で派手に飛び回り、キラキラと輝いている、あれとはまったく違うものが、そこにあった。
 陳錫煌は1931(昭和6)年生まれ。彼は、今のままでは台湾伝統の布袋戯が消え失せていくだろうということに、大きな危機感を抱いていた。10年という映画の撮影期間中にも、亡くなっていく仲間がいる。長い間、共に布袋戯を支えてきた人たちが、一人、また一人と姿を消そうとしている。だからこそ陳錫煌は高齢にもかかわらず、請われればどこへでも出向き、国籍や民族に関係なく、とにかく布袋戯に興味を持つ相手には惜しみなく自分の技術を伝え、後継者を育てようとしていた。その執念と情熱、卓越した人形遣いとしての技術の高さが、映画から十分に伝わってきた。
 大陸からやってきた閩南人たちが、台湾で独自に発展させた「布袋戯」。その伝統芸能が、何とかして次の世代にも受け継がれて欲しいものだと改めて感じる。

協力◎一般社団法人日本台湾文化経済交流機構 ◎プロジェクト「まごころ日本」
©Project Magokoro Nippon  ※日本台湾文化経済交流機構は日本統治時代の歴史建造物等の保存及び伝承、台湾と日本の良質な文物を相互に伝える活動を行っています。

(今回で最終話となります。ご愛読ありがとうございました。本作品は、近く刊行予定です。)

著者情報

乃南アサ(のなみ・あさ)

1960年東京都生まれ。早稲田大学社会科学部中退後、広告代理店勤務を経て、1988年『幸福な朝食』が第一回日本推理サスペンス大賞の優秀作に選ばれ、作家デビュー。1996年『凍える牙』で直木賞を、2011年『地のはてから』で中央公論文芸賞を受賞。2016年に『水曜日の凱歌』で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞した。他の作品に『花盗人』『団欒』『いつか陽のあたる場所で』『しゃぼん玉』『六月の雪』『美麗島紀行』『ビジュアル年表 台湾統治五十年』などがある。

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謹んで令和元年台風災害のお見舞いを申し上げます。

度重なる台風により被災された皆様に、心からお見舞い申し上げます。
また、被災地等におきまして、避難生活や復興の支援など様々な活動に全力を尽くしていらっしゃる方々に、深く敬意と感謝の意を表しますとともに、
一日も早く復旧がなされますよう心よりお祈り申し上げます。

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