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美麗島プリズム紀行 乃南アサ

第22回 あらゆる要素が融け合っている台湾の住宅

更新日:2020/06/17

 もともと多くの原住民族が点在して暮らしていた台湾に、中国大陸から人が移り住み、漢化が進んでいったのはいつのことか。それは17世紀の大航海時代、オランダとスペインが相次いで台湾を植民地化しようと上陸し、労働力として中国大陸から労働者を集めたのが最初だと言われている。
 その後、清朝によって滅ぼされた明朝の遺臣であった鄭成功(1624~1662)が、清への抵抗拠点を台湾に移すために澎湖島を経て1662年、台南に上陸し、オランダ・東インド会社の駆逐に成功、台湾で初めての政権を打ち立てた。
 この鄭成功という人物の母親は日本人の田川マツという女性だ。鄭成功は幼名を福松といい、幼少期まで母の郷である平戸で過ごした。当然のことながら日本にも特別な思いがあったことだろう。それもあってか、清と戦うための支援を度々日本に要請したという。だが結局、日本からの支援は得られなかった。それでも鄭成功の名前と活躍とは噂となって流れてきたものと思われる。鄭成功は別名「国姓爺」とも呼ばれていたことから、その生涯をもとにして近松門左衛門が人形浄瑠璃『国性爺合戦』(1715年。「姓」の字が「性」に置き換えられているのは、物語が史実とは異なる結末になっているため、文字を変えたと言われる)を書いて人気を博し、後には歌舞伎にもなっている。
 攻め落としたゼーランディア城の跡に安平城を築き、国としての体制を整えようとしていた鄭成功だったが、政権樹立からわずか4カ月後に熱病にかかり38歳という若さで呆気なく死去してしまう。彼の遺志は長男の鄭経(1642~1681)によって継がれるものの、彼も40歳前で死去、そして鄭成功の孫の代である1683年、清からの攻撃を受けて、鄭氏政権はわずか23年間で幕を閉じる。それからは1895年に日本が植民地とするまでの212年間、台湾は清に併合されていた。この間に、漢民族は本格的に台湾での数を増やしていった。
 それでも当初は、清国政府は台湾の統治には積極的ではなかったようだ。何しろ言葉も通じない原住民族の中には首狩りの風習を持つ部族なども少なくなく、とても一筋縄ではいかない。毒蛇もいればマラリアなどの風土病も多い。当時の台湾は、清国政府から見て利益を生むような土地には見えなかったのかも知れない。そのため、台湾への渡航にも厳しい制限をもうけた。
「①台湾に渡航する者は、原籍地の官庁の同意書を必要とし(中略)、②台湾に渡航する者は、家族の同行を禁じ(中略)、③広東省(東部)は海賊の巣窟であり、住民にはその因習が残っており、台湾渡航を禁ずる」(伊藤潔著『台湾』中公新書)といった具合だ。
 それでも密航者は後を絶たなかった。また、家族の同行を禁じられ、身一つで台湾に渡った男たちは、結局は原住民族の女性と家庭を持つしか方法がない。その結果「有唐山公、無唐山媽」(中国人の祖父はいても、中国人の祖母はいない)ということわざまで生まれることになった。台湾では大概の家が家系図を持っていると聞くが、その家系図を遡っていくと、男性の欄には氏名が明記されているのに、女性の欄は「女」としか記されていない場合が非常に多いと聞いたことがある。
「うちの家系図もそうです。祖父さんの代まで、女の人の名前は全然、分からない。書かれていない」
 自分は台湾に移住してから6代目だと言っていた老人が、そんな話を聞かせてくれたことがある。だから、台湾に渡って代を経ている家の人ほど、様々な原住民族の血が混ざっているということになる。
 これは、裏を返せば台湾原住民にとっても大きな変化の始まりだったということになる。特に「平埔族」と総称される、平地で暮らしてきた原住民族の各部族では、多くの女性が漢族の男性と家庭を持ち、暮らし向きを漢族風に変え、次第に自分たちのアイデンティティーを失っていった。
 それにしても、清が統治していた200年余りは「五年一大乱、三年一小乱」と言われるほど、台湾では武力蜂起や騒擾事件が絶えることがなかった。風土病や毒蛇に怯えながら暮らす人々は、原住民族ばかりでなく総じて荒々しかったということになるだろう。さらに「汚職や賄賂の悪習は中国の伝統ともいえるが、台湾における官吏の腐敗は、極端に深刻であった」(同前)というから、庶民は庶民で暴れ、政治は腐敗しているという、かなり無秩序で殺伐とした風景が思い浮かぶ。
 そんな具合だから、都市は周囲に強固な城壁を築いて外敵の侵入を阻まなければならなかったし、家々も互いにぴったりと肩を寄せ合うようにして建てられた。窓も小さく、通気も悪い。およそ開放的とは言い難く、また衛生状態も良くないが、それが庶民の生活様式として定着していった。
 それでも時代を経るうち、商売などで身を立て、立派な屋敷を構える人物が登場し始める。そういう建物の代表と言える一つが新北市板橋区にある林本源園邸だろう。国定古蹟に指定されており、観光地としても有名だ。


林本源園邸の中は通路が入り組んでいる部分もある。

 林家の祖先は、もともと18世紀後半に福建省漳州から渡ってきた。息子の代に商売で成功して、さらにその息子たちが事業を発展させた。林本源とは、特に優秀だった二人の息子の屋号からひと文字ずつとったものだという。家業の発展と共に屋敷は拡大を続け、庭園も広げられていったそうだから、実際に歩いてみると、実に複雑な構造になっているが、とにかく徹底的に漢民族らしい建物だ。林家の名は中国大陸にも伝わり、西太后の還暦祝賀式典には献金までしているくらいだから、「我々は台湾の地に根付き、富と名誉を得た唐山である」と高らかに歌い上げている感じが随所から感じられる。


台湾では中国風装飾として、窓の飾りによく竹が取り入れられている。 竹には「節」があることから、「節節高升(節操を持つ)」という意味が込められ、転じて「謙虚であること」を意味している。


林本源園邸の部屋の前の廊下。天井は高く、円柱の配列も美しい。

 一方、桃園市の大渓にある李騰芳古宅は、やはり国定古蹟に指定されているが、林本源園邸とは趣を異にしている。李家の祖先もやはり福建省漳州から渡ってきたといい、稲作事業から始まって食肉処理、海運業などで成功を収めて1864年に屋敷を建てる。ここまでは前出の林家と同様だが、その翌年、秀才の誉れ高かった当主の李騰芳が福建省に渡って科挙の試験を受け、見事に合格する。当時、台湾に移り住んだ者の子孫が科挙に合格するというのは大変な栄誉だったに違いない。その証拠として庭先に旗竿を立てることを許可されたという。


桃園の大渓にある李騰芳古宅は典型的な四合院建築。手前に見える石盤のようなものが、科挙に受かった証拠に許可された旗竿を立てるための台座。


李騰芳古宅の建物に施されている装飾。本と刀とがデザインされており、「文武雙全」(文武両道)の意味が込められている。

 つまり、商売の匂いのする林本源園邸に比べて学問の雰囲気を強く感じさせるのが李騰芳古宅といったところだろうか。屋敷は中国北部発祥の伝統的家屋建築である四合院の洋式をしっかり守っていて、華美な装飾などはない代わりに、屋根には燕尾翹脊と呼ばれる燕の尾羽のような反り返るデザインを取り入れ、優美でバランスが取れている。そして、そこから感じられるものはやはり「台湾」ではなく「中国」だ。


李騰芳古宅の通路。至る所に、教訓のような言葉が掲げられている。李騰芳は能書家であったという。


李騰芳古宅の厨房。

 つまり、林本源園邸も、李騰芳古宅も、漢族としての富と成功の証であることを強く感じさせる建物と言うことが出来るだろう。だが、こういった古い建物の持つ伝統が、現在の台湾の住居に、どういうふうにつながっているのかが、よく分からなかった。無論、今でも田舎を訪ねればたまに四合院らしい家は見かけるのだが、大抵は古い建物ばかりで、これから新しく四合院を建てようという人は滅多にいないようだ。その上、50年に及んだ日本統治時代の間に日本人によって建てられた日本家屋が、まだ各地にたくさん残っていて、むしろそういう日本家屋に親しみを感じている人の方が多い様子だったりもする。リノベーションして観光資源にしたり、自分たちなりに手を加えながら当たり前に暮らしている人も少なくない。
 今、台湾の人たちは、家というものをどんな風に捉えているんだろう。
 いつの頃からか、そんなことを思うようになった。ことに台北などの都市部を歩いていると、寺廟や祠以外には、中華風なものをほとんど見かけない。もともと小さな島だし、地価が非常に高いために、庶民が戸建ての家を持つことは不可能に近いといわれる台北だから、集合住宅が大半だということもある。古い集合住宅には、すべての窓に格子がはめられているから、ベランダといったものもそれほどない。その結果、旅行者の目には、ただ四角い建物がひしめき合う、無機的で殺風景な街並みにしか見えてこない。「住まい」の形というものが、どうにも分からない。
 そんなことを考えていた矢先、台南の友人から「古い家を見学させてもらえそうですよ」という知らせがあった。
「日本統治時代に酒楼だったところです」
 そんな建物が今も残っているのかと、飛び上がって喜んだ。
 かつて日本統治時代の台南には四大酒楼と呼ばれる四軒の有名レストランがあったのだそうだ。当時の地図を眺めるとよく分かるのだが、その頃の台南市内には郊外に点在していた各製糖工場から港まで、砂糖を運ぶための私営の小型軌道(軽便鉄道)が通っていた。明治時代から、そういった軌道の停車場近くなどに、次々に飲食店や劇場などが出来て賑わいが増し、そういった中でことに有名だった酒楼が「南華」「松金樓」「廣陞樓」「寶美樓」という四軒だったのだそうだ。
 その「廣陞樓」の建物が今なお残っているということだった。現在は個人所有の住居となっている建物を見学するために、台南へ向かった。
「私の祖父の代に、この建物を買ったんです」
 こちらの希望を快く聞き入れて、約束の時間に建物の前で待っていてくださったのは盧圓華氏。高雄にある樹德科技大学の特聘教授で、建築学博士でもある。一方で家具などのデザインも手がけており、氏がデザインした椅子の中には台湾総統府で使用されているものもあるそうだ。


日本統治時代は「廣陞樓」という有名酒楼(レストラン)だったという建物の正面入口。二階から張り出しているアーチ状のテラスが特徴的。


現在の所有者・盧圓華教授は建築学の専門家。


広い居間に置かれていた椅子。おそらく盧教授のデザインだろう。

「祖父は医者であり、また事業家でもありました。サバヒー(虱目魚)の養殖に乗り出したり、また宗教事業もしていたんです」
 説明を聞きながら、高く鬱蒼と繁る木の向こうにそびえる古い建物を見上げた。まず玄関の上、二階からせり出しているアーチ状テラスと建物左右の煉瓦が印象的だ。かつては酒楼として日ごと夜ごとに賑わっていた建物は、正面に「世澤醫院」という額が掲げられているから、その後は医院となっていたらしいことが分かる。
「日本統治時代の建築ですが、日本人が所有していたことは一度もありません」
 酒楼時代の客も、台湾人が中心だった。だが大正から昭和へと時代が移り、やがて戦時色が濃くなってくると、次第に客足も途絶えがちになり、経営に翳りが見えるようになった。宿泊客を受け入れられる部屋をいくつか用意してみたり、また、映画館になった時代もあるというが、やがて資金繰りが悪化、金融機関から融資を受けなければならなくなった。その結果、担保物件になっていたものを、盧教授の祖父が買い取ることになったということだ。
「祖父母は宗教事業をしていましたから、祖母が慈善活動として、ここに信徒さんのための食堂を作ったりもしていたようです」
 買い取ったのは1937(昭和12)年のことだそうだ。
「建物の形式としては『中日式』とでもいうものでしょうね。中日折衷といった感じです。日本統治時代の台湾建築の特徴の一つは、正面に四本の柱を建てること。さらに左右対称であることです。この建物の正面に使われているのは『TR煉瓦』というものです」
 TR煉瓦というのは台湾煉瓦のことで、中央に菱形のトレードマークが入り、13本の線が入っているのが特徴だそうだ。日本統治時代、日本人がイギリスの技術を持ち込んだことによって、台湾でも硬質の煉瓦が焼けるようになった。それまでは柔らかい中国式の煉瓦しかなかったことから、硬質のTR煉瓦は重宝された。この煉瓦は、台北駅そばで日本統治時代の遺跡が発見された現場でも見た記憶があった。当時としては非常にポピュラーなものだったのかも知れない。


最初は「廣陞樓」として誕生した建物の外観は、日本統治時代の建築の特徴をよく表している。使用されている煉瓦部分は、当時さまざまな場所で使用されていた「TR煉瓦」。

「では、中に入りましょうか。内装は昔とはすっかり変わっていますが」
 額の掲げられている入口から、そっと中に足を踏み入れる。
 まず、いかにも医院らしい受付とロビーが広がっている。だが、何よりも目についたのが、盧教授の御両親、兄妹らの写真が、時代を追ってずらりと大きなパネルにして展示してあることだった。この建物は現在あくまでも個人の住宅だ。それでも、この建物で過ごしてきた家族の歴史が、こうして飾られている。それこそが家族への思いであり、また誇りなのだということが、よく分かる。
 真っ直ぐ奥に進んでいくと、突き当たりに台所があって、その手前に階段があった。
「ここで靴を脱いで下さい」
 台湾には、いわゆる靴脱ぎスペースである「三和土」というものがない。大抵の場合は玄関扉の前で靴を脱いで家に上がり込むというのが標準スタイル。慣れていない日本人は、ついつい靴のまま玄関扉の中に一歩、足を踏み入れそうになり、そして戸惑う。
 さらに言えば、台所の位置も興味深い。以前、日本への留学経験のある知人が初めて日本に来たときの感想を語ってくれたことがある。
「何がびっくりしたって、アパートを借りようとしたら、どの部屋も玄関から入ったらすぐ目の前に台所があったことです」
 台湾では、火を使う場所は財運を司ると言われているのだそうだ。だからガス台などを玄関の傍に置いたら、財運が逃げてしまうと考える。また、他人から見られる可能性もあるとも言えるらしい。だから、台所は家の一番奥に配置するのだそうだ。特に玄関とガス台が向き合っていたりするのは、台湾人から見れば一番のタブーだと教えられた。
 階段の下で靴を脱ぎ、そこからはスリッパを借りて二階に上がっていく。すると、広々とした空間の中央、ガラスの衝立の向こうに家族の肖像画や写真がずらりと並べられている立派な祭壇が据えられていた。相当に古いものらしく、意匠も凝ったものだ。そこでひと通り、盧教授のご両親や祖父母についての説明を聞いた。


現在は個人所有の住宅となっている建物の二階中央には、先祖と家の守り神を祀る祭壇がある。


盧教授の先祖を祀る祭壇に施されている装飾。凝った象嵌であることが分かる。

 話を聞きながら、密かに「なるほど」と膝を打つ気持ちになっていた。こういった建物に入って中華スタイルというものを感じるとは思わなかったからだ。すぐに、李騰芳古宅をはじめとする四合院建築の構造を思い出した。
 中庭を囲んで東西南北に一棟ずつ建物を建てるのが、中国の伝統的な住宅である四合院の基本的な構造だが、中でも門の正面にあたる建物を「正房」と呼んで、そこがもっとも住み心地が良いとされる。「正房」の中央の部屋に家の守り神や先祖を祀って、同時に、そこが客間になる。左右に続く部屋が家の主人や妻の部屋という決まりだ。その「正房」の役割を、この部屋が果たしていた。
「私の父も、中医だったんです。日本統治時代は、政治や政府関係につながるような専門分野は学ぶことが出来ませんでしたから、法律家になるか、医学の道を進むしかなかったですからね」
 家族の写真などが飾られている祭壇の奥に配された応接セットに腰掛けて、私たちは盧教授の説明を聞いた。
 祖父の跡を継いで、その後は盧教授の父が医院を開業したこの建物だが、終戦後の1950(民国39、昭和25)年、今度は国民党によって、中國航空の寮として接収されることになった。期間は11年にも及んだという。その間、家族は自分たちの家でありながら、そこに住むことが出来なかった。
「家の前に井戸があるのですが、父はその傍に医療所を開いていました。家族もすぐ近くに家を建てて住んでいました。10人家族ですからね、大変でした」
 台南には日本統治時代に造られた空港があって、戦後は中華民国空軍が接収し、アメリカ軍が駐屯していたこともある。中國航空としては、急いで従業員たちの宿を確保したい理由があったのだろうか。酒楼から始まり、映画館になったり慈善事業の食堂を経て医院になった建物は、航空会社の寮として使われ、1960年代になってようやく落ち着きを取り戻そうというところまでこぎ着けた。


中國航空が「盧世澤氏」に宛てて宿舎として借り受ける旨を書いた証書。民国39年は1950年。

「私たち家族の手に戻ってきた後で、家を増改築しました」
 その増改築工事に、今度はなんと7年の歳月を費やしたのだそうだ。そのとき、かつて「廣陞樓」だった頃は建物の梁として使用されていた阿里山の檜を新たな柱にしたり、古い建材を使用して現在の窓枠を作ったりという工夫を様々に行ったという。中國航空に接収されている間に、盧教授の父上は暇さえあれば新しい家の計画を練り、様々に思いを巡らせていたらしい。
 建物の歴史は、そのまま盧教授の一家の歴史へと変わっていく。ひと通りの話をうかがった後、さらに家の中を案内していただいた。盧教授の父上が最期まで過ごし、家族が介護していたと思われる部屋や浴室なども、そのままに残されていた。今現在は盧教授の家族が暮らしているが、今後は博物館として一般公開することも計画しているのだそうだ。老朽化が目立つことから様々な人が出入り出来るようにするためには、補強改修の必要もあるだろう。
 テラスがある窓とは反対側の窓に近づいてみた。中庭が見える。四方を建物に囲まれて、ぽっかりと開けている空間だ。何気なく首を巡らせると、右側にある建物の三階のベランダから、犬が顔を出していた。盧教授の愛犬、ラリスだ。
「ラリース!」
 窓を開けて教わったばかりの名を呼び、怪訝そうな顔をしている犬に手を振りながら、改めて中庭を見下ろした。ここにもやはり、四合院の発想があるように思えた。四方を建物に囲まれた中庭に出て、家族は誰に遠慮することもなくくつろぎ、洗濯物を干し、植物を育てる。それが、古い時代から外敵の侵入を防ぎ、家族を守ろうとしてきた建物の受け継がれ方だ。


旧「廣陞樓」の二階テラス。酒楼だった頃は、ここからどんな風景が見えていたのだろう。


中庭側の窓から空を見上げる。


盧教授の愛犬ラリス。まったく無駄吠えしない黒柴。

 再び一階に下りた。最初は気づかなかったが、盧教授の父上が使っていたと思われる医療器具や薬類などが、ほとんどそのまま残されている部屋があった。埃を被り、すっかり時が止まったままの状態になっている薬棚を眺めながら、時の流れと家の歴史というものを考えた。


盧圓華教授の父上が使用していたとみられる薬棚の片隅には、ムカデやヘビらしいアルコール漬けも。中医として、こういうものも使用したのだろうか。


これは何に効く薬だったのか。


中医だった盧教授の父上が使用していたに違いない様々な道具が、そのままに残されている。

 日本統治時代の特徴を示し、二階と三階とでは異なるデザインのテラスを持つモダンな建物は、様々な時代の人の出入りを経て、四合院の特色も取り入れながら、今後また新たな表情を持つことになるのかも知れない。こうした融和と融合こそが台湾の特徴なのだろう。博物館にするまで、盧教授はまだまだひと仕事しなければならないに違いない。

協力◎一般社団法人日本台湾文化経済交流機構 ◎プロジェクト「まごころ日本」
©Project Magokoro Nippon  ※日本台湾文化経済交流機構は日本統治時代の歴史建造物等の保存及び伝承、台湾と日本の良質な文物を相互に伝える活動を行っています。

著者情報

乃南アサ(のなみ・あさ)

1960年東京都生まれ。早稲田大学社会科学部中退後、広告代理店勤務を経て、1988年『幸福な朝食』が第一回日本推理サスペンス大賞の優秀作に選ばれ、作家デビュー。1996年『凍える牙』で直木賞を、2011年『地のはてから』で中央公論文芸賞を受賞。2016年に『水曜日の凱歌』で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞した。他の作品に『花盗人』『団欒』『いつか陽のあたる場所で』『しゃぼん玉』『六月の雪』『美麗島紀行』『ビジュアル年表 台湾統治五十年』などがある。

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度重なる台風により被災された皆様に、心からお見舞い申し上げます。
また、被災地等におきまして、避難生活や復興の支援など様々な活動に全力を尽くしていらっしゃる方々に、深く敬意と感謝の意を表しますとともに、
一日も早く復旧がなされますよう心よりお祈り申し上げます。

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