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美麗島プリズム紀行 乃南アサ

第21回 80代女性が70年以上も心に抱いてきた疑問

更新日:2020/05/20

「私、ティーンエイジの頃から、ずっと心に引っかかってきた問題が、大きく言うと三点くらいあります」
 台湾の女性から、声のメッセージが届けられた。ゆっくりとした日本語で、声も朗々としており、張りがある。声を聴いているだけでは、彼女がもう八十代半ばを過ぎており、しかも台湾人だとは思えないほどだ。前置きもなしに、女性は滔々と話しつづけた。
「まず第一に、蔣介石は戦後に日本軍に対しては『以徳報怨(いとくほうえん)』という言葉を用いたでしょう? 翻って台湾に対しては、そうしなかったのはなぜなの? 戦争に負けた日本人を中国大陸やこの台湾から、本国に帰したときの態度とは違って、蔣介石は、片っ端から台湾青年、活動家を殺して、牢屋に入れて、暴力で押さえ込もうとしたのよ。そうして二・二八事件が発生したの。あれ、どうしてかなあ。私、いくら考えても分からない」
「以徳報怨」とは、訓読みをすると「徳を以て怨みに報ゆ」となり、もとは『論語』に出てくる言葉だ。中国浙江省出身の軍人であり、初代中華民国総統だった蔣介石(1887~1975)は1945年8月15日に行った終戦演説の中で、敗戦した日本に対して「われわれは報復してはならず、まして無辜の人民に汚辱を加えてはなりません」(Wikipedia 蔣介石の項)と訴えた。その後、帰国する日本人向けに大量に配布された『蔣介石演説集』の中で「以徳報怨」という言葉が使用されるようになったと言われている。これにより、命拾いした日本人たちにとって蔣介石の評価は決定的なものになった。敵国の指導者でありながら、怨みではなく徳をもって報復はしないと言う、この崇高な精神を讃えないはずがない。その結果、日本人にとっての蔣介石は偉大な人格者となり、ある種、神格化までされるようになった。
 ところがその一方で、この演説からまる2年もたたない1947年2月28日に、蔣介石率いる中国国民党は、日本が去った後の台湾で、市民への大量虐殺・弾圧事件である「二・二八事件」を引き起こす。「以徳報怨」とは真逆に、恨みも何もないはずの、しかも自分たちを「同胞」と信じてきた相手に向かって、最悪の感情をむき出しにしたのだ。


観光名所となっている台北の中正紀念堂。ドーム型に口を開いた建物の向こうには巨大な蔣介石座像。「中正」は蔣介石の本名。


かつてはあらゆる学校の校庭、公園などに建てられていた蔣介石の銅像は、年を追うごとに各地でその数を減らしている。

 正確に言えば当時、蔣介石自身はまだ中国大陸にいて国共内戦の最中だった。台湾には蔣介石の命令により、日本への留学経験も持つ陳儀(1883~1950)が行政長官兼警備総司令官として赴いていた。陳儀は二・二八事件のわずか3年後、国民党から共産党に寝返ろうと画策し、それが露見して国民党により台北で処刑されることになるのだが、この人物が台湾に乗り込んできたことで、まず敗戦までは日本人が経営していた企業の大半が中華民国の国営とされた。米・塩・砂糖・燃料などに関しては政府が一括購入するようになり、さらに日本統治時代に始まったタバコ・酒・マッチなどといった品の専売制度はより強化された。こうすることにより、陳儀は国共内戦により物資が不足していた中国大陸へ、せっせと食料や物資を送り続けたと言われている。その結果、台湾は激しい物不足とインフレに見舞われた。しかも、中国大陸から台湾に送り込まれていた兵士や憲兵は非常に質(たち)が悪かった。彼らは誰に対しても賄賂を要求し、一般市民の家にでも勝手に押し入って、略奪・暴行などを繰り返すという有様だったから、市民は余計に不安に陥れられ、治安も大いに乱れてしまう。


台南の国立台湾文学館(旧台南州庁)などが建つロータリーが囲む円形の公園は、日本統治時代は「大正公園」という名称で、台湾総督として日本統治時代初期に手腕を発揮した児玉源太郎の銅像が建てられていた。


「大正公園」は戦後、「民生綠園」と名称を変え、そこに建てられたのは中華民国の「国父」である孫文の銅像だったが、2014年に投票の結果、撤去されている。


台南市の木、鳳凰木の花。


高雄市立歴史博物館。二・二八事件の折にはここにも大勢の市民が逃げ込み、そして国民党軍によって射殺された。その様子はジオラマとして現在も展示されている。また、二・二八事件後の白色テロの時代に処刑された本省人の木版画家・黃榮燦の作品や処刑直前の写真パネルを展示していたこともある。


日本統治時代から建っていたと思われる古い家屋にも、すべての窓に格子が取りつけてある。それほど外からの侵入者を警戒しなければならなかった時代があった。闇にひそんで誰かが聞き耳を立てていることも珍しくなかった。

「狗去猪来」(犬が去って豚が来た)
 その当時、流行った言葉だ。犬(日本人)はうるさく吠えるが番犬としては役に立つ。だが豚(中国人)は貪欲で汚く、食い散らかすばかりという意味だ。また「軒を貸して母屋を取られる」と嘆く人もいた。
 二・二八事件は、そんな市民の不満が沸点に達したときに引き起こされたものだった。
 きっかけはその前日、台北市内で闇タバコを販売していた子持ちの寡婦が、中華民国の官憲に摘発されたことだった。生活苦に喘ぎながら、何とかして子どもを育てていかなければならない境遇だった女性は、土下座をして許しを請うたが、官憲はそんな彼女を銃剣の柄で殴打し、闇タバコと売上金を取り上げてしまう。すると、それを見ていた街の人らが彼女に同情して集まってきた。おそらく異様な雰囲気になったのだろう、民衆に恐怖した官憲は彼らに向かって銃口を向け、ついに威嚇発砲をする。その結果、まったく無関係な台湾人が弾を受けて倒れてしまうという悲劇が引き起こされた。辺りは怒号に包まれたに違いない。官憲は、その場から逃走した。
 日本として敗戦を経験し、中国に「光復」したと思ったのに、光などまったく見えなくなってしまった日々、耐えに耐えていた台湾人の怒りが爆発した。
 翌28日、抗議のデモが市庁舎へ向かう。ところが、その人々に向けても国民党の憲兵隊は機関銃を向けて無差別に攻撃、射殺を行った。ここから、台湾人たちの怒りは瞬く間に台湾全島に広がっていく。すると国民党側も武力で人々を鎮圧しようとし始めた。
 台湾人の中にはもちろん冷静になろうと呼びかける人たちがいた。彼らは人々の怒りを鎮めようとする一方で、これ以上、犠牲者を出さないためにも、国民党に対して台湾人としての要求を差し出し、理解を求めた。すると陳儀は、彼らの要求を呑むような姿勢を見せておきながら、その間に時間稼ぎをして、実は蔣介石に向かって援軍を求めていたのだ。
「台湾人が暴動を起こした」「武力をもって殲滅させるべきである」といった内容の、陳儀からの電報を鵜呑みにして、蔣介石は一個師団の兵士と憲兵隊を台湾へと派遣した。そこからはほとんど無差別と言っていいほどの攻撃が、台湾人に向けられることになった。主な標的とされたのは、台湾人としての主権を主張し、自分たちの人権、自治を認めて欲しいと求めた人たちだ。この人たちは日本統治下で高等教育を受けた、いわゆるエリート層の人々だった。ジャーナリスト、医師、弁護士といった人々が次々に逮捕、投獄され、拷問を受け、虐殺されることになった。


二・二八事件のときに処刑された湯德章は日本人警察官の父親と台湾人の母親との間に生まれた。日本への留学経験も持ち、その後、台南で弁護士として活躍する一方、政治改革運動にも参加していた。3月11日に逮捕され、「民生綠園」で
公開処刑されている。


二・二八事件で処刑された人々は、日本統治時代に高等教育を受けた、いわゆるエリート層が主だった。台湾の未来を担おうという弁護士・医師・ジャーナリストたちが次々に処刑された。湯德章もその一人。


「民生綠園」は、1998年、「湯德章紀念公園」と再び名称を変え、次第に整備されて、今は湯德章の胸像(1枚上の写真)が据えられている。


台南の街中で「湯德章弁護士が使用していた机」をそのまま無造作に置いている商店を見つけた。

 その当時、蔣介石を神格化していた日本には、この事実はまったくと言っていいほど伝えられなかったという。または、知っていても耳を塞いだのかも知れない。日本は日本で連合国軍に進駐され、焼け野が原から這い上がるのに必死な時代だった。とてもではないが、50年間、自分たちと同じ国の人間だった人たちの苦難を思いやる余裕などなかったし、台湾で起こっていることを知ったとしても、手出しのしようもなかったと考えることも出来る。
 二・二八事件により生命を落とした犠牲者は、1万8千人から2万8千人と言われている。未だにその総数がはっきりしないのは、一家全員が虐殺されてしまっていたり、また、何人もの人間の手に針金を突き刺して数珠つなぎにして海に放り投げるなどの虐殺方法をとられたために、死体そのものが発見されていないということもあったようだ。
 現在、八十代半ば以上になる台湾人から話を聞くとき、二・二八事件の記憶を語られることは珍しくない。当時もっとも多感な少年少女だった彼らが、街の広場や公園で、公開処刑される人を見たと語る。家族さえ近寄らせてもらえず、死体はそのまま何日も放置されていた、トラックの荷台にすし詰め状態に載せられて、そのまま機関銃で銃殺された、また、手や足を数珠つなぎにされて、どこに連れていかれたなどという話を、老人たちは今もその光景が蘇るといった表情で語ることがある。
 その後、蔣介石は国共内戦に敗れて中国大陸をさまよった挙げ句、1949年12月に国民党の臨時首都を台北に置くこととし、息子の蔣経国と共に逃れることになる。敗戦の色が濃くなってきたと読んだのだろう、その半年ほど前の1949年5月19日、国民党政府は台湾全島に戒厳令を布いた。この戒厳令は、それから38年間にも及び、それが「白色テロ」と呼ばれる恐怖政治の時代になった。この時代、人々に言論の自由はなく、密告が奨励され、多くの人々が投獄、処刑されることになった。この間に、台湾での蔣介石は着々と自らの偶像化をおしすすめ、一方で、人々には徹底的に恐怖心を植え付けた。台湾人のみならず、共に大陸から移り住んできた「外省人」に対しても目を光らせた。その結果、人々は互いに警戒し合い、心を明かさず、政治には目を向けず、ひたすら口を噤んで暮らすしかなかった。そんな状況下では、二・二八事件の存在そのものが覆い隠された。犠牲となった人の家族たちは、まさしく息をひそめるようにして暮らすより他なかっただろう。
 女性のメッセージは続いていた。
「日本人が本国へ引き揚げる際に、日本人の住宅とか、不動産や、その他の持って帰れないもの、台湾に遺したものは、その後、中国大陸からの難民や、軍人、軍隊がぞろぞろと入ってきて、いとも簡単に、そうしたものを手に入れたのよ。家も、職場も、財産も、何もかも。
 それは、特に国民党の財産になったの。
 だから国民党は大金持ちになった。
 あの頃、私の親戚が台北に進学することになって、そして、家を探していたのです。
 たまたま一人の見知らぬおじさんが、日本の家を五軒も、財産として手に入れたと言うんですって。使用権をもらったと。
 だから私の親戚は、その五軒の中の一番安い家を借りたの。
 ねえ、おかしいねえ?
 自分はただで手に入れたものを、台湾人には家賃を取って、貸し出すの。
 これはねえ、多くの大陸から来た人の貪欲さというものを、すごくよく表しています」
 この話も、台湾に行くたびによく耳にしてきた。陳儀が率いていた中国国民党は、すべての企業に入り込んだ。だが大半の人々が、帳簿の読み方さえ分からず、企業の財産を私物化することの何が悪いのかも分からなかったという。会社の金庫から持ち出した金で、かつては日本人経営者が暮らしていた家に上がり込んで麻雀に明け暮れることなど当たり前の光景で、職場に留め置かれて仕事を続けていた台湾人の従業員たちは、ただ呆れてその光景を見ているより他なかったそうだ。
 日本人は、台湾から引き揚げてくるのに際して「身の回りの品々と1000円を上限とする日本円」しか持ち帰りを許されなかった。何年もかけて築き上げてきた財産も土地家屋も、すべて手放さなければならなかった。中国国民党は、まさしく濡れ手に粟のように、それらの財産を手に入れたことになる。
 彼女は、またこうも続けた。
「そしてねえ、中国は人さらいの国なのよ。拉致の国です。
 どうしてかといえば、話によれば、軍隊が中国を離れるとき、道端の男の人でも誰でもさらって、軍の仕事をさせてきたんです。場合によっては、ある高校へ行って、全クラスの人をさらってきたって。さらってきて、その子たちを国民党の『養子』にする。
 高校生から育てて、優秀な子どもの場合は大学にもやって、大学を出るころには、アメリカや外国に留学させたんです。お金は、いくらでもあるんだもの。日本人が遺したお金がね。そうやって、自分たちに都合のいい人材を育てて、成功した場合には台湾に呼び戻して、外交官や政治の役に立ちそうな職場を与えたんです。
 そうなったら、台湾人で、途中から中国語を学び直して、一生懸命に大学の教授になった人なんか、瞬く間に職を奪われますよ。
 だから、台湾人はいくら優秀で、立派な学校を卒業しても、誰も出世出来ない時代がありました。だって、全部、外省人に占められるでしょう?」
 以前、ある老人から話を聞いたとき、その人は、優秀な人材はすべて二・二八事件で殺害され、しかも、台湾にはそれまで一度として自分たちの国を自分たちで統治した経験を持っていなかったために、蔣介石と国民党に好き勝手なことをされたのだと言っていたことを思い出した。
「あの人たちは、台湾に感謝してない。はじめから」
 女性の声はあくまでも静かで落ち着いていた。それだけに、彼女が七十年以上もの間、口を噤み、それでも心に抱き続けてきた怒りや悲しみというものが強く感じられた。
「あの人たちは、台湾から、取れるだけの利益をとって、職も奪ってしまう。なぜなら、あの人たちの目には、台湾人は三等国民。何を比べてそう言いますか? ちっとも分からない。
 私ね、まだ結婚前で実家にいたとき、厦門から引き揚げた一人の女の人が、うちのお手伝いさんとしていらしたことがあったのよ。
 その人の話によれば、厦門からは彼女の夫と、べつにもう一人の女の人と一緒に来たんですって。そして台湾に渡ってきて、履歴書なんか書くでしょう? それから、戸籍も登録するんだけど、その登録するときに、本妻である彼女が『妹』っていう形になっていて、もう一人の女が『本妻』になっていたんですって。いつの間にか、夫に裏切られていたのよ。
 お手伝いに来た彼女は、とても上品な人だった。うちで働いているときも、子どもたちとも、とても仲良くしてくれていた。今でも本当に好きだし、つらそうな顔がいつも瞼に浮かびます。
 そういうことをする人たちが、どうして台湾人を三等国民だと思うのかしら。本当に分からない。
 嘘つきの国から来た人。
 彼らはね、履歴書もまた、めちゃくちゃだったのよ。年齢、学歴も思いのままに出来たの。だから、台湾人から職を奪うのなんか、とても簡単だった。
 覚えていて下さいね。これは全部、本当のこと。これまで誰にも言わなかったことですよ。どうしてかって? だって、そんなことの言える時代は最近まで来なかったでしょう? それに、私たちの子どもたちは、みんな国民党による教育を受けていますから、蔣介石のことをとても尊敬してきたし、中国の歴史しか教わっていないんだもの。学校で、中国語でそういう教育をされてしまっていて、家庭に帰ってきた子どもに、親が台湾語で『それは嘘よ』なんて言おうものなら、『あの家では台湾語で子どもに国民党の悪口を教えている』なんていう噂が流れて、あっという間に逮捕される、そういう時代だったんですよ。だから、子どもを傷つけないために、親はみんな黙るしかなかった。それで、日本の時代があったことだって、ずっと教わってこなかった人たちが、一杯育ってしまったのよ。反日教育を受けてね」
 日本で研究者として暮らしている台湾人から聞いたことがある。歴史の時間には中国大陸の歴史を習い、地理の時間も中国の地理を習ったのだという。だからあるとき、中国大陸の地図を眺めながら「台湾はどこだろう」と探し、どうしても見つからなかったから、先生に聞いてみた。すると先生は、大陸から離れたところの、ほんの小さな島を指した。
「あの時は本当にびっくりした。えっ、私たちは島に暮らしているんですか? 中国大陸からは離れているんですかって」
 その人はまた、幼い頃に自分の祖父母が帳面をつける文字を見て、一体、何の記号だろうかと不思議に思ったことがあるとも語っていた。今にして思えば、それは日本語のひらがなかカタカナだったらしいのだが、幼い子には、それは分からない。台湾が日本の統治下に置かれていたことすら習っていないのだから、祖父母がひらがなやカタカナを使う理由など分かるはずもなく、また、それを聞いても、台湾語と日本語とで暮らしてきた祖父母は、中国語を理解出来ないから、きちんと応えることも出来なかったという。もしかしたら、応えるつもりもなかったかも知れない。とにかく戒厳令下の台湾では、家族さえ互いに警戒しなければならなかったというのだから。
「ねえ、だからね、私は思うの」
 女性のメッセージも終わりに近づいていた。
「これも不思議に思うことです。
 私たちが死んでしまったら、若い人たちは何も知らないまま、蔣介石を尊敬して、国民党を支持し続けるのかしら? 私たちが、どんな思いをしなければならなかったのか、全然、知らないままで、喜んで国民党の言う通りにするのかしら。それが私はとっても気がかりなの。心配しています」
 女性は、台湾にはまだまだ一杯、不思議な問題があるのだと言いながら、最後に、幼い頃にうたっていたという台湾語の童謡を歌ってくれた。意味は、私には分からない。だが、素朴な節回しの歌を聞きながら、その女性の人生を思った。日本統治時代、白色テロの時代を経て、今ようやく自分が目にしてきたことを語り、二・二八事件のことを口に出来るようになった。それでも最後の最後に、彼女は、自分の氏名はおろか、暮らしている土地のことも、身分も年齢も、何一つ言ってもらっては困ると念を押していた。すべては私が日本人であること、そして、日本語であっても、このことを書き記してくれれば、それがありがたいということだった。


台北の「二二八国家紀念館」は、二・二八事件で命を落とした人々の名誉回復を目的として運用されている。日本統治時代は台湾教育会館だった建物を使用し、事件の背景、発端、顛末など、豊富な資料を展示している。多くの犠牲者が日本語教育を受けている人たちだったため、日本語でしたためた家族への遺書や、銃弾を受けた服なども展示されていて、胸に迫る。


「二二八国家紀念館」の内部。なるほど、いかにも日本の古い建物だと随所から感じられる。


「二二八国家紀念館」に展示されている至急の電報。横の説明には「蔣介石主席は『今月7日に上海から一個師団の軍団と憲兵隊の大隊を送ることを命じたと知らせた。』陳儀の四日の派兵請求に応じて。」とある。

 長く、苛酷な時代を生き抜いてきたからこそ、台湾の人たちは自分たちが勝ち取った民主主義を非常に大切にしている。政治から目を離してはならないと強く意識しているのだと、つくづく思う。今、民進党政権下で、二・二八事件に関して、また蔣介石の実像についても、人々は少しずつ歴史を振り返り、検証し、再評価しようとしている。

協力◎一般社団法人日本台湾文化経済交流機構 ◎プロジェクト「まごころ日本」
©Project Magokoro Nippon  ※日本台湾文化経済交流機構は日本統治時代の歴史建造物等の保存及び伝承、台湾と日本の良質な文物を相互に伝える活動を行っています。

著者情報

乃南アサ(のなみ・あさ)

1960年東京都生まれ。早稲田大学社会科学部中退後、広告代理店勤務を経て、1988年『幸福な朝食』が第一回日本推理サスペンス大賞の優秀作に選ばれ、作家デビュー。1996年『凍える牙』で直木賞を、2011年『地のはてから』で中央公論文芸賞を受賞。2016年に『水曜日の凱歌』で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞した。他の作品に『花盗人』『団欒』『いつか陽のあたる場所で』『しゃぼん玉』『六月の雪』『美麗島紀行』『ビジュアル年表 台湾統治五十年』などがある。

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謹んで令和元年台風災害のお見舞いを申し上げます。

度重なる台風により被災された皆様に、心からお見舞い申し上げます。
また、被災地等におきまして、避難生活や復興の支援など様々な活動に全力を尽くしていらっしゃる方々に、深く敬意と感謝の意を表しますとともに、
一日も早く復旧がなされますよう心よりお祈り申し上げます。

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