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美麗島プリズム紀行 乃南アサ

第17回 台北の新名所「呼吸する隠れ家」を実現した日本の技術

更新日:2020/01/15

 今からおよそ2500年前の中国春秋時代、越という国で活躍した政治家に范蠡(はんれい)という人物がいた。范蠡は軍師としても非常に有能で、王・允常(いんじょう)とその息子・勾践(こうせん)の二代にわたって仕えていた。ちなみに、越と隣国・呉との攻防の中で生まれた故事成語が、我々もよく知る「臥薪嘗胆」だ。戦の途中で生命を落とすことになった呉の王・闔閭(こうりょ)に、越への復讐を誓った息子の夫差(ふさ)が「臥薪」して奮起し、その結果、一度は滅ぼされかけるところまで追い詰められた勾践が今度は「嘗胆」して再起と復讐を誓ったことから生まれた諺だという。
 紀元前473年、越が呉を滅ぼしたときに范蠡はその才能を遺憾なく発揮する。戦に際しては奇策に出たり、一方で呉の夫差を堕落させるために西施(せいし)という美女を送り込むという策を弄したのだ。西施とは、楊貴妃などと並んで中国四大美人の一人に数えられている女性で、案の定、夫差は西施に溺れて国政が疎かになっていき、やがて越に滅ぼされる。それほどの知恵者である范蠡だけに、呉を滅ぼした後の主君・勾践が、次には自分を疎ましく思うようになることを冷静に見越していた。そこで、西施を伴って密かに斉の国へと逃げてしまう(西施を伴っていたかどうかは諸説ある)。
 斉の国にたどり着いた范蠡は、そこで商売を始める。すると、これが大当たり。だが、大成功すればその分だけ目立つ。目立ちすぎれば不幸を招くという考えから、范蠡は築いた財産のすべてを惜しみなく人々に分け与えて、今度は現在でいう山東省の菏沢にある定陶という土地に移り住むことにした。そして、自らは陶朱公と名乗るようになる。范蠡こと陶朱公は、ここでもまたもや商売で大成功し、老後は悠々自適の生活を送ったといわれている。以来2500年、陶朱公の名は、中国では大商人の代名詞として現代まで語り継がれている。
 その陶朱公の名を冠したマンションが出来ると聞いた。その名も「陶朱隠園」、つまり陶朱公の隠れ家という意味だ。陶朱公の逸話を知れば、自ずからどれほど豪華な住まいだろうかと期待が膨らむ。
「あれあれ、ほら」
 ある晩、夕食を終えて店から出たところで、ビルの谷間から彼方を指さされた。場所は台北市の副都心、信義区。近くには台北101や台北世界貿易センターなどが建ち、高級ホテルや金融機関なども集中している、台北の最先端の顔が見られる地域だ。指し示された方を見上げて目をみはった。まるで夜の闇の中に巨人が立っているような印象の、あまりにも存在感のある建物が見えたからだ。今にも動き出しそうにさえ見える。
「あれが、日本の熊谷組が建ててるマンション」
 それが「陶朱隠園」だった。大きさにも驚くが、何しろ不思議な形をしている。歩きながら何度か振り返ると、その都度、違う姿に見えるのだ。台湾の建築物には日本では絶対にお目にかかることのない個性的なデザインのものが目立つ。その中でも「陶朱隠園」は群を抜いていると言っていいだろう。
「中を見てみたいなあ」
 思わず呟いていた。ショッピングセンターやオフィスビルなどなら、竣工後に訪ねる機会もあるだろうが、マンションとなるとそうはいかない。しかも、闇の中にそびえ立つ建物は、どう見ても超高級に間違いなく、既に無関係なものを完全に拒絶するだけの偉容を誇っていた。
「今なら竣工前ということもありますし、施主の承諾も得ましたから、見学しても構わないということです」
 熊谷組の全額出資子会社である台湾の現地法人「華熊営造」から回答をもらったのは、それから数カ月後のことだ。喜び勇んで駆けつけたのは言うまでもない。それまで、信義区随一のシンボルといったら台北101だったが、実はこの超高層ビルの施工も熊谷組が行っている。そのことを最初に教えてくれたのは台湾人だ。508メートルという、完成当初は世界一の高さを誇ったビルは、そのまま台湾人の誇りらしかった。
「素っ晴らしいんだよ、それも日本の技術だからね。台湾も地震が多いけれど、何も心配していない」
 あの時の知人の、いかにも得意そうな顔つきは、今も記憶に残っている。ああ、台湾の人は、日本企業が施工したことを、これほど自慢してくれるのかと感じたものだった。そういう信頼と実績が、おそらく今回の「陶朱隠園」にもつながったのだろう。そう思わずにいられないほど、改めて昼間に近くから見るその姿は、素人の目から見ても並外れて「すごい」ものだった。


『陶朱隠園』の、ある階のベランダ。日本からも植木を取り寄せ、置き石などもされて、 庭園風に仕上げられている。


エレベーター上部の大理石に、さり気なく刻まれた『陶朱隠園』の名前。このエレベーターに愛車ごと乗り、上階の自宅まで行くことが出来る現代の陶朱公とは。


まだ工事の終わっていない『陶朱隠園』の上階部分。この斜めに通る太い柱が、建物の独特な形状を支えている。それにしても天井の高いこと。


『陶朱隠園』上階から外を眺める。高級ホテルやマンションも眼下におさめられる。


玄関アプローチ付近から見上げたところ。各階に植えられた植物は、これからますます枝葉を茂らせて、この建物を「呼吸する建物」にしていくことだろう。


見ようによっては、今にも大手を振って歩き出しそうにも見える姿。その向こうに建つ台北101と共に、日本企業の技術の結集と言える。台北の景色がまた大きく変わる。

 設計デザインはヴィンセント・カレボー。ベルギー国籍の建築家は「The Tree of City」を基本コンセプトとしており、その作品は日本の新国立競技場のデザインでも話題となったザハ・ハディッド氏と並んで施工が難しいアンビルト建築と言われている。実際、設計の二割しか作られていないというから、非常に特殊な設計をする人物と言えるだろう。
 今回、カレボー氏は我々の未来に待ち受けている人口の増加や気候変動といった問題にどう立ち向かうかを強く意識した上で、「世界で唯一、呼吸できる芸術品のような住宅」を目指して設計したという。強烈な印象を与える外観は、素人が見ても何となく分かる通りDNAの二重らせん構造からヒントを得ている。そこに中華圏の建築物らしく、万物の根源である陰陽思想のイメージと、さらに両の手を組んだようにも見える柔らかさも加えた。そうして生まれたのが「陶朱隠園」というわけだ。
「まだ植栽などの作業が続いています。足もとに気をつけて下さい」
 建築途中のゲートをくぐり抜け、案内して下さる方について敷地内に入る。あまりに近寄りすぎると、建物全体の姿がまったく分からなくなるから、逆に遠目に見ているときほど特別な感じがしないのだが、それでも建物が上に向かって少しずつずれているのだから、やはり、独特の威圧感がある。
「これから見ていただければ分かりますが、敷地内だけでなく、建物の全フロアー、すべてのバルコニーにも植栽を施しています」
 植栽は全体で2万3000本以上を計画しているという。それにより年間130トンの二酸化炭素が吸収されるということだ。さらに、有機性廃棄物の再利用、建物一体型太陽光発電、雨水のリサイクル、省エネ効果の高い複合ガラスなどを採用することによって、おそらく現時点で最高基準のエコ効果を確保していることになる。もちろん構造面でも「すべり振り子型免震装置」を採用しており、安全性を確保。それだけのハイテク技術と、この不思議な形。そのアンバランスを実現するのに、どれほど困難を極めたかは、5年という工期が物語っているだろう。施工にあたっては、どのゼネコンも尻込みをして、結局は華熊営造に白羽の矢が立ったという話も聞いていた。
 住居部分は地上2階から21階までで、その上にはヘリポートもある。つまり現代の陶朱公は、たとえばヘリで屋上に降り立てば「下界」の空気に一切触れることなく、自らの「隠れ家」に入ることが出来るというわけだ。もちろん建物の中央部に垂直に貫かれているコアの部分には7基のエレベーターが設置されている。客用2、貨物用1、緊急用4だという。各戸の住人や来客は、外出先から車ごとエレベーターに乗り込んで、自宅の玄関先まで乗り付けることが出来る。無論、プールなどもある地下部分に設けられている駐車場には乗用車、バイク用と十分なスペースが確保されているのだが、それでも日々、室内にいながら愛車を眺め、玄関先から車に乗り込んだら、そのまま目的地に直進出来るという生活が送れるのだから、もしかしたら一生涯、雨に濡れる心配もいらないのかも知れない。
「車どころか、この高さだったら馬でも楽々乗れますね」
 大きなエレベーターで運ばれながら、思わずぽかんと口が開いた。まだ大部分がベニヤ板などで覆われているから、本当の豪華さは分からないが、それでも隙間から美しい大理石が見えていたりして、すべて取り払われたときの豪華さが察せられる。そうしてたどり着いた上階は、モデルルーム風に多少の装飾がなされているものの、基本的にはがらんどうの状態だった。一戸あたりの面積は約200坪。フロアーによってはまだ工事が続いているものの、その広さと緩やかにカーブを描いている窓ガラスに囲まれた開放感は、それだけで贅沢なものだ。
「ここに、どんな間取りの住まいが出来るんでしょうね」
 たとえば窓ガラスの内側にウッドデッキを巡らせて、外の景色がそのまま内側にまで続いているような演出も出来る。なるほど、様々な遊び心を好きなだけ試せるのだなと納得しながら窓の外に出てみると、確かにベランダには豊かな植栽がなされていて、自然林風になっていたり庭園風になっていたりと、それぞれに工夫がされていた。手入れはすべて専門の業者が行う。信義区の多くの建物が眼下に見え、台北101も近い。
 全体で40戸が入れるという。価格は60億円とも80億円とも。その買い手については噂は流れているものの、基本的には公開されていない。その中に、日本人は含まれるのだろうか。いずれにせよ、ここに暮らす現代の陶朱公たちには、庶民の生活はまったく見えてこないだろうな、などと少し皮肉な思いにも囚われながら、何はともあれこれだけの大仕事を日本の企業がやり遂げたということに、素直に感動する。建造物は仕事が残る。しかも、これだけ際だった建物の施工に携わったということは、工事に関わったすべての人の自信と誇りにもなるはずだ。
 思えば日本統治時代から、台湾の主立った建築物はすべて日本人の手によって建てられてきた。今も各地に残る駅舎や役所、公共施設などなどは相当数に上る。それらの中で、筆頭にあげるべきなのは、やはり総統府だろう。
 現在の中華民国総統府は、日本統治時代の1919(大正8)年、台湾総督府として建てられたものだ。設計は長野宇平治(1867~1937)。日本銀行の各支店などを数多く手がけた人物だ。そして、長野の師匠にあたるのが、日本銀行本店や東京駅などの設計で知られる辰野金吾(1854~1919)。とにかくその設計が堅牢であることから、名前をもじって「辰野堅固」とまで呼ばれた人物で、辰野自身も総督府設計に監修として関わった。だからだろう、この建物もいわゆる「辰野式建築」と呼ばれる、ヴィクトリア女王時代のゴシック様式を取り入れた設計デザインとなっており、東京駅の丸の内駅舎や大阪市の中央公会堂とよく似た印象を与える。
 1919年3月、台湾総督府が竣工した当時の台湾総督は、第七代の陸軍大将・明石元二郎(1864~1919)。日本による統治もようやく最初の混乱期を乗り切って、いよいよ台湾を「内地の延長」として、各分野で発展させようとし始めた頃だった。明石総督の時代に、台湾電力が設立されて水力発電事業の推進がはかられ、第一次台湾教育令によって台湾人にも国立大学にすすむ道が開かれ、台湾最大規模の農水施設である嘉南大圳の建設も承認された。華南銀行も設立されて、高砂麦酒株式会社も誕生している。そういう大変革の時代だっただけに、ここから一気に台湾の近代化を図っていこうと大いに張り切っていたことは間違いない。その意気込み、気負いといったものが、そのまま総督府の建物の形になったようにも感じられる。
 ところが、明石総督は台湾総督府が竣工した年の秋に、在任中のまま呆気なく病死。在任期間は1年4カ月という短いものだった。それでも当時の日本は、この美しく堅牢な台湾総督府そのものまでが、たったの四半世紀余りで米軍の爆撃を受けて大破することなど予想だにしていなかっただろうし、ましてや自分たちが懸命に築きつつある植民地を手放すことになろうとも、夢にも思っていなかったに違いない。
 第二次世界大戦末期の1945年5月31日、台湾総督府は米軍の空襲を受けて大きく破損した。無残な姿になった総督府を、大戦終結後に進駐してきた中華民国政府が接収、修復して、1948年、台湾総督府は新たに中華民国総統府として蘇った。
 2019年でちょうど築後100年を迎えた総統府は、植民地統治の象徴であった時代から蔣介石による統治の時代を経て、現在は台湾における民主政治の牙城となっている。2020年1月までの、この建物の主人は、民進党の蔡英文総統。1月の総統選挙の結果次第では、主人の交代が起こるかも知れない。そうなったときには、総統府の中ではすべてのスタッフが交代し、また異なる雰囲気になる可能性もある。それでも100年間、この地に建ち続けてきた姿は変わらない。


中華民国総統府の中庭。地面には中華民国の国花である梅の模様がかたどられている。「GoogleMap」で見てみると納得出来る。


総統府の周辺は、歩道に埋め込まれたタイルにも工夫がなされている。これは台湾ザル。お面をつけたような面白い顔。


同様に、こちらは台湾犬。こちらも本物より野性的で筋骨隆々。


100年前の完成当初は、台湾でもっとも高い建築物だった。初めて見る日本人でも何となく親しみを感じるのは、東京駅や大阪市中央公会堂などと共通する雰囲気を持っているためだろう。


総統府前の広場をウロついていたズグロミゾゴイ。総統府とその周辺は常に警備の警察官や憲兵が目を光らせているが、この鳥だけは緊張感もなく、自由に餌を探して歩きまわっていた。


総統府からも歩ける距離に建つ新光人壽大樓。新光三越台北駅前店が入る建物は、地上51階建て。 やはり熊谷組の現地法人・華熊営造が手がけた。設計は郭茂林氏。完成当初は台湾一の高さを誇った。形状も色づかいも、総統府の尖塔を連想させる。

 その総統府の中に初めて見学に入った。ガイドに案内されて歩いているうちに、ノブが低い位置についているドアの前にさしかかる。ここで、ガイドは必ず見学者たちにクイズを出すのだと聞いていたが、やはり同じことが起こった。
「どうして、こんなに低い位置にドアノブがついていると思いますか?」
 答えは、ドアを開けようとする姿勢を取ることが、そのまま深々と礼をしている姿勢になるため。
「礼節を重んじた日本人の考え方です。ドアを開けて部屋に入ろうとするときに、もう深くおじぎをしているんです」
 日本語を話すガイドは嬉しそうに、また少し自慢気に、自らドアノブに手をかけておじぎの姿勢をとりながら、そう教えてくれた。なるほど、100年前の日本人は、そんなことまで考えてドアノブの位置を決めたのかと感心する。総統府は、これまで大理石の張り替えの他、二度にわたって大規模な修繕工事をしてきたという。それでも、このドアは昔のままで残した。そこが面白い。
「建物はね、上から見ると日本の『日』の字の形をしていますよ」
 ガイドは、そんなことも言っていた。帰ってから「Google Map」で確かめてみたら、なるほど「日」の形をしている。だからこそ、空襲を受けたときには格好の標的になったのだろうとも思うのだが、戦争のことなど考えもしなかった往事の日本人建築家は、こんなところにも神経を行き届かせていたということになる。
 台湾では、今も各地に日本人建築家や日本企業による建物が建てられ続けている。それに便乗して、中には「日式」とうたうどころか「隈研吾風」とか「伊藤豊雄風」などという触れ込みのマンションの広告がでかでかと出ていたりもする。それこそが日本のブランド力なのだろう。
 日本では見かけない、自由で、柔らかさがあって、並外れてスケールの大きな印象を与える台湾各地の建築物。それらの建物は、台湾人の中にも「効率」を追い求める人ばかりがいるわけではないことを再認識させてくれる。だが、それらは高度な技術によって裏打ちされているからこそ実現されてきたものだ。そして多くの場合、そこには日本の企業が携わり、下支えとなっている。
そのことを、台湾人たちは忘れていない。
「あ、あれね。あれは日本のね」
 と、自慢気に語る彼らの表情に接するときが、こちらとしても嬉しいときだ。

協力◎一般社団法人日本台湾文化経済交流機構 ◎プロジェクト「まごころ日本」
©Project Magokoro Nippon  ※日本台湾文化経済交流機構は日本統治時代の歴史建造物等の保存及び伝承、台湾と日本の良質な文物を相互に伝える活動を行っています。

著者情報

乃南アサ(のなみ・あさ)

1960年東京都生まれ。早稲田大学社会科学部中退後、広告代理店勤務を経て、1988年『幸福な朝食』が第一回日本推理サスペンス大賞の優秀作に選ばれ、作家デビュー。1996年『凍える牙』で直木賞を、2011年『地のはてから』で中央公論文芸賞を受賞。2016年に『水曜日の凱歌』で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞した。他の作品に『花盗人』『団欒』『いつか陽のあたる場所で』『しゃぼん玉』『六月の雪』『美麗島紀行』『ビジュアル年表 台湾統治五十年』などがある。

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