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美麗島プリズム紀行 乃南アサ

第15回 客家の町で乃木希典の足跡を見つける 苗栗・南庄郷

更新日:2019/11/20

 確かに私たちは少しばかり急いでいた。
 うまくすれば予定よりも一本早い新幹線(台湾高速鉄道=高鉄)に乗れるかも知れなかったからだ。当初、予定していた新幹線では、今夜の宿泊地である台南に着くのがかなり遅くなる。高鉄の台南駅から今夜の宿までは、さらに1時間以上はかかるはずだった。
「間に合う保証はありませんが、まあ、行くだけ行ってみましょう」
 台湾北西部に位置する苗栗県の南庄郷という山間の町を訪ねた後のことだ。台中の北に位置する苗栗県には、漢民族の中でも客家(ハッカ)と呼ばれる人たちが多く暮らしている。県内のおよそ80パーセントは山地で、県の北東部にある南庄郷も、やはり山間の町だった。かつては林業と炭鉱業で栄えたというが、その他の情報を、私は何一つ得ていなかった。もともと、きちんと下調べをするタイプではない。行き当たりばったりが好きなのだ。
 だから今回も、南庄郷に着くとすぐに老街と呼ばれる古い商店街を方角も分からないままぶらぶらと歩き始めた。すると数分後、ある食堂の前を通りかかり、何気なく中を覗いて、つい足が止まった。食堂の壁に大きな顔が描かれていたからだ。


台湾で「乃」という漢字に出会うことはあまり多くないので、何となく写真を撮った。


観光地と聞いていたがこの日は閑古鳥が鳴いていて、食堂の店先では赤ちゃんをあやす女性の姿が。


「乃木崎食坊」の店内に目を向けて、驚く。ピンクのテーブルクロスと乃木将軍のアンバランス。

「あれ、乃木将軍じゃない?」
 日本人なら誰でも知っている明治時代の軍人、昭和天皇の教育係、崩御した明治天皇の後を追って妻と共に殉死した忠義の人。その乃木希典の顔が、大衆食堂の壁にでかでかと描かれている。しかも、私たちがよく見かける乃木将軍の肖像に比べて、その表情は明らかに柔和に見えた。はて、どうして乃木将軍が、と首を傾げそうになって、すぐに思い出した。
 乃木希典(1849~1912)は、旅順攻囲戦で名を馳せた日露戦争へ出撃するよりも前に、第三代の台湾総督として台湾に赴任していた時期がある。当時、47歳。もっとも働き盛りの頃だ。だが、その在任期間は1896(明治29)年10月から翌々年2月までの1年4カ月間という短いものであり、乃木の輝かしい経歴の中ではあまり取り上げられることがない。なぜなら台湾総督としての乃木はこれといった成果を上げられず、最後は急に老け込んだかのように「記憶力減退」を理由にして、自ら職を辞するという結果に終わってしまったからだ。
 1896(明治29)年といったら、日本が台湾を領有した翌年だ。植民地として統治する体制などまるで整っておらず、台湾はまだまだ混乱のただ中にあった。抗日運動が頻発する一方、全土で「土匪(どひ)」「匪徒(ひと)」と呼ばれる、いわゆる山賊的な武装集団が暴れ回り、さらに原住民族が刃を振るう。それよりもまず台湾を平定するべく派遣された兵士たちが苦しめられたのはマラリアを始めとする風土病だった。台湾こそ「瘴癘(しょうれい)の地」であると言われ、実際に乃木と共に台湾に渡った最愛の母・壽子(ひさこ)も現地で病を得て、ほどなくして亡くなってしまう。
 そんな台湾で、総督としての乃木に課された使命はまず台湾の治安を確立することだったが、一方で明治政府は一日も早い台湾の殖産興業を目指していたから、当然のことながら生粋の軍人である乃木も、不慣れながらそのために動いていたはずだ。
 1897(明治30)年、乃木は南庄郷を訪れた。どうしてこの山間部の小さな集落までやってきたかといえば、おそらくこの地域が日本統治以前から樟脳(しょうのう)の生産地だったことと無関係ではないだろう。クスノキを原料とする樟脳は、医薬品や防腐剤として使用される他、19世紀に入ってからはセルロイドの可塑剤として多いに注目されていた。明治政府はこの樟脳を、台湾における一大産業に育てるつもりだった。乃木は、樟脳生産の現場を視察するつもりだったのではないかと推測できる。
 南庄郷に到着して、乃木は町の中心から永昌宮という道教の寺院へ通じる道が、あまりにも急斜面で行き来も困難であることを、自分の目で見て知る。そこで乃木は自らのポケットマネーから50元を出して、その急斜面に石段を造らせた。人々は大いに喜んで、石段を「乃木崎」と名付けたという。「崎」というのは階段の意味だそうだ。


これが乃木希典が総督時代に私費を投じて造らせたという石段。説明を読まなければ簡単に通り過ぎてしまっていた。


坂道の上に建つ日本家屋。当時の小学校(公学校か)の校長が住んでいたという話も。


南庄老街。昔は1階と2階で別々の人が住んでいたという。

「つまり、これこそ本当の乃木坂なんだ」
 乃木の顔が描かれていた食堂の、ちょうど裏手にその石段はあった。説明されなければ何も気にとめることなどない、ごくありふれた狭い石段だ。上っていくと、途中にも「乃木崎」の由来を短く解説したプレートが立てられていた。
 乃木さんは、こんな片田舎にその名前を残したのか。
 それまで、とにかく台湾における乃木希典の1年余りといったら、彼の一徹な謹厳実直ぶりが裏目に出て、することなすことうまくいかず、配下との関係も良好ではなかったというような記述ばかりを目にしていたから、乃木にしてみれば台湾には何一つとしていい想い出もなく、後悔ばかりが残る土地なのではないかと思っていた。何しろ母まで亡くしているのだ。だが、この小さな石段が、現代に至るまで地域の人々に利用され、愛され続けていると分かったら、きっと本人も喜ぶに違いない。小さな石段は、乃木希典という人の人柄まで忍ばせる貴重なものに思えた。
 乃木崎を上った先には、やはり日本統治が始まって間もなく設立された小学校や日本家屋があり、この地に確かに日本人がいたという痕跡がありありと残っている。いつも思うことだ。日本から遠く離れて、これほど山深い地に入り、新たな暮らしを築こうとしていた日本人たちは、果たしてどんな思いで日々を過ごし、その後はどんな人生を歩んだのだろう。猛烈な勢いで台湾を「日本」にするために邁進していた人たちは、ただひたすら、この地と自分たちの人生に明るい未来を夢見ていたに違いない。まさかたった50年で、この地を手放すことになるとも思わずに。
 南庄郷は過去に地震と台風で二度、壊滅的な被害を受けているという。だから、乃木総督が見ていた景色と今のものとでは、おそらく家並みも違っているだろう。それでも人々の暮らしぶりそのものは大して変わっていないかも知れない。何より、客家独特の華やかな色彩を持つ客家花布などは同じなのではないかと思っていたら、その花布を使った洋品店があった。売られているのはどう見ても日本の浴衣に見える。


洋品店の店先で売られていた子ども用の浴衣。和風の生地のようでもあり、客家独特の花布のアレンジにも見える。店の人は「日式だよ!」と力説していたけれど。


戦後間もなくから映画館として親しまれたという「南庄戯院」。かつてこの街が炭鉱と林業で栄えていた頃を忍ばせる。現在は食堂になっているらしい。


唯一、出会った町のお年寄り。ゴミの収集車を待っていた。私たちが日本人だと分かると「ボクはもう年寄りだから忘れてしまった」と笑いながら、うろ覚えの日本語で話してくださった。


かつてこういう住宅に日本人も暮らしたのだろうか。

「ほら、日本の浴衣ですよ。ねえ、日本のものと同じでしょう?」
 こちらが日本人だと分かると、店の人がにこにこして話し始めた。
「これも日本。これも日本ね」
 見せられるものすべてが客家花布だから、デザインとしては浴衣と同じようでも印象が全然違っている。それでも、とにかく日本統治時代の名残がこうして人々の暮らしに混ざり込み、すっかり定着しているのだろう。
 その日はとにかく道行く人が少なかった。林業や炭鉱業が廃れた今は観光で賑わっていると聞いていたのに、その日に限ってだろうか、観光客の姿もほとんど見当たらず、町中がひっそりとしていた。地元の人から話を聞きたいと思っても、行き当たらないほどだ。
 さて、どうしたものかと思いながら歩き続けるうち、「十三間老街」という一角に出た。もともとは13軒の店が軒を並べる商店街だったらしい。今では数を減らして廃屋は藪に呑み込まれ、とても商店街などと呼べるような雰囲気ではなくなっている。しばし途方に暮れかけていたとき、ある家の壁に「南庄事件1902」というプレートが張られているのが目にとまった。
「南庄事件って、あの南庄事件かな」
 南庄事件は、日本統治時代に起こった原住民族による武装蜂起事件だ。
 発端は当時、樟脳生産に本格的に乗り出していた日本の業者が開墾した土地に、原住民族であるサイシャット族の土地が含まれていたことによる。先祖代々、受け継いできた神聖な土地を勝手に奪った上に、自分たちを森林や製脳工場で働かせ、しかも賃金をまともに支払わないと、原住民族の間ではかねてから怒りと不満が募っていた。そしてついに日阿拐というサイシャット族のリーダーが近隣のタイヤル族などにも声をかけ、合わせて800人あまりを率いて製脳工場を襲撃した。それまでにも度々、工場労働者は首狩りなどの犠牲になってきたが、この襲撃事件では1500人に及ぶ死傷者を出すことになったという。
 これに対して台湾総督府は軍を派遣、陸軍混成第一旅団の新竹守備隊、歩兵第二中隊、砲兵第一小隊からなる大隊規模の増援まで行なって本格的な戦闘に入った(参照『南庄事件と〈先住民〉問題:植民地台湾と土地権の帰趨』山路勝彦)。
 原住民族が、いくら地の利に長けていたとしても、日本軍の近代兵器を用いた武力にはかなわなかった。長期戦の末、最後には制圧されて、帰順する者は許されたというが、その帰順式からリーダーの日阿拐は逃走し、そのまま行方が分からなくなったらしい。
 あの南庄事件が。
 1902年といえば、乃木希典総督に続いて、第四代台湾総督に児玉源太郎、民政長官として後藤新平(ともに在任期間1898~1906)という、台湾統治史上最強のコンビが近代台湾の礎を築こうとしていた時代だ。軍人として多忙を極めていた児玉源太郎は「留守総督」と呼ばれるほど不在が多く、全権を委任された格好で実権を握っていた後藤新平は「比良目(ひらめ)の目を鯛の目にすることはできん…中略…先ずこの島の旧慣制度をよく科学的に調査して、その民情に応ずるように」(『台湾』伊藤潔著・中公新書)政治を行うという方針で、何もかも日本式を人々に押しつけはしないという統治を行った。
 だが、それでも自分たちに刃を向けてくる存在に対しては容赦ない態度に出た。いくら「民情に応ずる」とはいっても、それは台湾の人たちのためというより、あくまでも現地人から余計な反発を買わないための方策で、衣食住や風俗習慣など、日本が統治していく上で支障がないものについては、さほど締めつけないというものだ。だがもしも台湾総督府の意に染まない行動に出た場合は、武力をもってでも徹底的に従わせた。そして多くの人々が血を流し、家族を喪い、時として獄につながれ、生きる術をなくした。
 台湾を旅していれば、結局どこへ行っても必ずこういう話に出くわすことになる。山霧の流れが見渡せるばかりの静寂に包まれたこの土地にも、やはり流血の過去があったと知って、私の気持ちは沈んだ。インフラ整備や教育の充実など、日本による台湾統治は今もなお高く評価されている部分が少なくないものの、決して光の部分ばかりではないことを改めて思い知らされる。


薑絲炒大腸=お酢とモツの炒め物。酸っぱいとは注意されたが、実にむせるほどのお酢の強さ。


客家小湯圓=韮、豚肉と団子スープ。紅白の小さな団子の入ったスープは特に冬至の頃に好んで 食べられるという。湯圓は甘い味付けのものもあるが、こちらは塩味。


客家油燜筍=豚肉の脂を使った筍煮込み。客家料理の特徴は乾物や塩漬けを多く用いることと味付けが濃いこと。 これは塩漬けのタケノコを戻した煮込み。


苗栗の北にある新竹は柿の産地。高速道路のサービスエリアで干し柿を作っているところに出くわした。

「もう、行きましょうか」
 予定の時刻よりは早かったが、もう移動しようかという気持ちになったのは、そんなわけだった。
 南庄郷から苗栗駅は、直線距離にすれば34.5キロといったところだが、山間を縫うように進まなければならないから、実際には何倍もの距離がある。次第に黄昏が近づいて、長閑(のどか)な畑が広がる風景が少しずつ霞んで見え始めようという時刻だった。私たちの車は、田舎道を軽快に飛ばしていた。
 片側一車線の道路の前方を、二人乗りのスクーターが走っていくのが見えた。リュックサックを背負って、着ているのは二人とも上下のジャージーだ。私たちを乗せた車はセンターライン側に大きく膨らみ、そのスクーターを追い越しにかかった。見通しのいい道で、そうでなくてもさっきから、対向車は一台も見かけていない。そうしてスクーターを追い越すと思った瞬間だった。
 だん!
 激しい音がしたのと同時に、車は急ブレーキをかけて停まった。身体が大きく前のめりになる。衝撃と驚きで、一瞬、何が起こったのか分からなかった。
 ドライバーが素早く車から下りていく。振り返ると、私たちが追い越したはずのスクーターが路上に倒れて、ジャージー姿の二人が路面に転がっていた。
「引っかけたんだ!」
「後ろを見てなかったのかな」
「怪我、怪我は!」
 大変なことになったと思った。まさか、旅先で交通事故の当事者になるとは。私たちのコーディネーターも慌ただしく車から下りていく。こちらは、固唾をのんで車の中から見ているより他になかった。
 ドライバーが駆け寄っていく。すると、転がっていた二人が驚くほど素早く立ち上がった。怪我していたとしても大したことはなかったのだろうかと思っている間に、高校生らしく見える男の子が素早くバイクを起こしにかかる。それから、ドライバーにぺこぺこと頭を下げたかと思うと、一緒に立ち上がった女の子を急かして、二人は再びバイクにまたがり、あっという間に私たちの乗った車を追い越して走り去っていった。
「お待たせしました。ドアミラーをちょっとこすったね」
 数分後、コーディネーターとドライバーがそれぞれ車に乗り込んできた。こちらはまだ動揺しているのに、ドライバーの顔には笑みまで浮かんでいる。
「警察を呼ばなくて大丈夫なんですか? 事故証明とか必要じゃないんですか?」
 いくら尋ねても、コーディネーターは「大丈夫です」と言うばかりだった。そして、そんなことがあったにも拘わらず、私たちはギリギリで一本早い新幹線に乗り込むことに成功した。座席に落ち着くと、コーディネーターが「実はね」と話しかけてきた。
「台湾では、バイクの免許は18歳にならないと、取れません」
 つまり、さっきの高校生は無免許でバイクに乗っていたというのだ。だから警察など呼ばれてしまっては面倒なことになると分かっていて、慌てて逃げていったのだという。もちろん、自分たちが不注意だったことも十分に承知していたらしい。
「ああ、そういうこと」
 台湾で当たり前に見かけるバイクのノーヘル三人乗りや四人乗り、時にはそこにペットまで加わっている姿は、旅するものから見ると一つの風物詩にも思えてなかなか味わい深いのだが、全部、違反なのだと教えられた。でも皆、やっている。
「もし捕まっても、またやるよね。特に田舎の方は緩いですから、捕まらないし」
「でも、怪我してたら」
「大丈夫、慣れてます。転んでもね、すぐに起き上がる」
 何度、転んでも大丈夫。けろりとしてバイクに乗り続けます、とコーディネーターは笑っている。それが一般的な台湾人の気質なのだとしたら、日本統治時代の傷など、とうに忘れ果てているかも知れない。そう考えたら、沈んでいた気持ちが少し軽くなった気がした。車窓の外はすでに漆黒の闇となっていた。

協力◎一般社団法人日本台湾文化経済交流機構 ◎プロジェクト「まごころ日本」
©Project Magokoro Nippon  ※日本台湾文化経済交流機構は日本統治時代の歴史建造物等の保存及び伝承、台湾と日本の良質な文物を相互に伝える活動を行っています。

著者情報

乃南アサ(のなみ・あさ)

1960年東京都生まれ。早稲田大学社会科学部中退後、広告代理店勤務を経て、1988年『幸福な朝食』が第一回日本推理サスペンス大賞の優秀作に選ばれ、作家デビュー。1996年『凍える牙』で直木賞を、2011年『地のはてから』で中央公論文芸賞を受賞。2016年に『水曜日の凱歌』で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞した。他の作品に『花盗人』『団欒』『いつか陽のあたる場所で』『しゃぼん玉』『六月の雪』『美麗島紀行』『ビジュアル年表 台湾統治五十年』などがある。

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謹んで令和元年台風災害のお見舞いを申し上げます。

度重なる台風により被災された皆様に、心からお見舞い申し上げます。
また、被災地等におきまして、避難生活や復興の支援など様々な活動に全力を尽くしていらっしゃる方々に、深く敬意と感謝の意を表しますとともに、
一日も早く復旧がなされますよう心よりお祈り申し上げます。

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