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美麗島プリズム紀行 乃南アサ

第14回 日本と縁の深い村に、再び立った新たな鳥居

更新日:2019/10/16

 日本が台湾を植民地として統治下に置いたのは、1895(明治28)年、日清戦争勝利後に締結された下関条約で、清国からの譲渡が正式に決められたことによる。これを機に日本は台湾平定のための兵を送り込むが、実はそれよりも20年以上前、つまり時代が明治に変わり、日本がようやく近代化に向かって走り出したばかりの1874(明治7)年にも台湾に出兵している。
 発端はその3年前の1871(明治4)年10月、宮古島の琉球御用船が遭難したことだった。首里へ年貢を運んでいった帰りに暴風に見舞われたのだ。漂流の果てにたどり着いたのが台湾南端に近い太平洋岸の八瑤湾という場所だった。乗組員69名のうち3名は死亡したものの、残る66名は上陸を果たす。ところが、このうち54名が原住民族によって殺害されてしまうという事件が起きた。
 助かった12名によってこの大量虐殺事件を知ることになった日本政府は、清国に厳重抗議した上、賠償請求をする。だが清国政府は、事件は「化外(けがい)の民」によるものであるとして、これを突っぱねた。「化外」とは、文明の外の存在ということだ。要するに、自分たちの管理の手が及ばない、いわゆる「蕃人」が何をしようと知ったことではないという態度を示したことになる。
 これにより明治政府は西郷隆盛の弟・従道を蕃地事務都督に任命して台湾出兵を命じた。当時、陸軍中将だった西郷は3000余の兵を率いて台湾南西部の恒春に近い射寮庄あたりから上陸し、戦闘を続けながら内陸部の牡丹社を目指して進撃していった。
「その、虐殺事件を起こしたパイワン人たちが住んでいたのが、ここなんです」
 案内する人に言われて、「えっ」と一瞬、言葉を失いそうになった。
「ここの人たちが、ですか」
 台湾最南端に位置する屏東県の高士(クスクス)村を訪ねたときのことだ。そういえば、ここは正式には屏東県牡丹郷高士村という。かつては髙士佛と表記した。そして、前述の一連の事件は「牡丹社事件」と言われている。
「ほら、そこに咲いている、あれが牡丹の花です。この辺りには多いんです」


野牡丹の花。ひっそりとしていて「これが牡丹です」と教えられるまで分からなかった。 この花が咲き乱れる郷に日本との深い因縁があるとは。

 かつて台湾原住民族の多くには「出草(しゅっそう)」と呼ばれる首狩りの習慣があった。パイワン族も同様だ。首狩りの意味としては、成人男子と認められるための通過儀礼だとか勇者の証だとか言われている。他部族との争いもあっただろう。より多くの首を狩ったものは勇者と認められ、部族のヒーローとなった。
「牡丹社事件」に関しては、遭難した宮古島の人たちがなぜ大量に殺害されなければならなかったのか、明確な理由は分かっていない。原住民族は文字を持たないため、伝聞以外には記録が残っていないのだ。だが、互いにコミュニケーションの取れない、しかも見覚えすらない人相風体の男たちがいきなり大勢で現れたことに対して、当時の村人たちが強い警戒心を抱いたのではないかと想像するのは難しいことではない。
「そうですか、ここが」
 目の前に咲いている花は、日本で見かける華麗で艶やかな牡丹とはずい分違う、楚々とした美しさの野牡丹だ。風に揺れる可憐な花を眺めながら、頭の中では、山中を逃げ惑う数十人の宮古島の人たちと、蕃刀を持って彼らを追うパイワン族の荒々しい息づかいや殺気立った表情が思い浮かんでいた。そのとき、牡丹の花は咲いていただろうか。
 それに対する日本の報復は壮絶なものだったらしい。それでも日本軍に攻め入られたとき、クスクス村の人々は最後まで激しく抵抗したというが、結局は村ごと焼き払われ、頭目の親子は銃殺された。近代兵器を手に、それも大人数で攻め入られては、いくら地の利に長けていたとしても、降伏するまでさほどの時間はかからなかったことだろう。
 余談になるが、このときの日本軍による攻撃に衝撃を受けた清国は、台南の安平に砲台を築き、日本軍が上陸した辺りに兵を配置するなどして軍備を固めることにした。さらに、恒春鎮には城壁を築き始める。ウェイ・ダーシェン(魏徳聖)監督による『海角七号~君想う、国境の南~』(2008年)はヒロインが日本人だったことからも大きな話題となり、台湾で記録的大ヒットになった映画だが、作品の舞台になったのが恒春だ。映画の影響もあって今や外国人観光客も訪れるようになり、ほぼ完璧な形で残る城壁と城門は見どころの一つになっている。だが、実はこの城壁が日本を警戒して築かれたものであることを知る日本人観光客は、そう多くないかも知れない。


台湾最南端の町、恒春に巡らされた城壁と西門。今も完璧な形で残る城壁と城門は、すっかり町に溶け込んで、生活道路として、また城壁の上は散歩道として使われている。

 2005(平成17)年、「事件の被害者と加害者の末裔同士が直接対面して和解を試み、合わせて台湾出兵で被害に遭った原住民に対して日本側の研究者が謝罪をし、未来志向の友好と平和を誓いあった」(『牡丹社事件 マブイの行方』平野久美子著・集広舎)ことから、この事件はおよそ130年ぶりに本当の意味で終結している。
 パイワン語で「たくましい」「勇気がある」という意味のクスクスという名を持つ村は、こうして皮肉にも近代日台関係史上、ごく早い時期に日本と関わりを持つ存在となった。そして、その後の歩みも数奇なものがある。まず「クスクス」という響きの村名に「髙士佛」という文字をあてたのが西郷従道だという話がある。当時から、日本は既に台湾に相当な興味を持っており、ゆくゆくは自らの統治下に置くことを念頭に動いていたのかも知れない。出兵を機に、その地域の地勢や植生、マラリアなどの風土病についても詳細に記録している。
 こうして日本統治時代に入ると、髙士佛村ではまず他の原住民族と同様に「出草」の習慣を改めさせられ、日本人によって公学校が建てられて、日本語の教育が始まった。当時この辺りでは植物の新種が多く発見されたことから、台湾総督府はこの地に林業研究所を作り、台湾で初めて珈琲栽培を手がけたりもしていた。
 台湾統治開始から15年後の1910(明治43)年、日本はロンドンで開催された日英博覧会に髙士佛村のパイワン人たちを連れていき、踊りなどを披露させている。かつて「化外の民」とまで言われた人たちを、日本は見事に統治しているということを、世界の一等国であり多くの植民地を持つイギリスに見せたかったのかも知れない。
 この出来事が問題となるのは、それから実に100年近くも過ぎた2009(平成21)年のことだ。NHKがドキュメンタリー番組『JAPANデビュー』で台湾統治時代のことを扱い、高士村の人たちが日英博覧会で「人間動物園」として見世物になり、それを知った子孫たちが嘆き悲しむという内容の放送をした。「人間動物園」という、実際には使用されていない言葉で屈辱的な表現をされ、取材に対して語ったことは編集されてまったく意図しない内容になっていたことに村の人たちは大いに傷つき、この問題は日本人視聴者らを巻き込んで訴訟にまで発展した(2016年原告請求棄却確定)。
 その高士村で日本統治時代を実際に経験し、記憶する人は、もうさほど多く残ってはいない。それでも、今も元気な方たちが集まって、幼い日の話をしてくださった。
「学校の先生は厳しいよ。勝手に早退けしたり、村の外に出たり、喧嘩すると、怒られるんだ」
「棒で叩かれたり、正座させられて腿を踏まれたりしたよ」
「『バカヤロー!』とね、よく怒鳴られた」


李金葉さん(日本統治時代の氏名は能見キクヨさん)は、学校で先生に叱られた思い出を語った。珍しくお酒を呑んだと言い、この後は昼寝に戻った。


余黄月花さん(日本統治時代の氏名は吉村セイコさん)は 「昔の思い出話をしたいと思っても、孫たちには日本語は分からない」と嘆いた。

 久しぶりに日本語を使うせいか、または以前のNHKの取材が記憶にあるせいか、どなたも最初は硬い表情で、日本に対する印象も厳しいものばかりだった。それでも、話しているうちに思い出がほとばしり出てくる。
「でもね、一人だけいた女の先生は、本当に優しかった。山田ミチコ先生。色んな歌を習ってね」
 既に80代になっている彼らが、子や孫には通じない日本語で『鳩ぽっぽ』や『お手々つないで』を声を揃えて歌う姿は、何とも言えず切なく、胸に迫るものがある。この人たちは、何という激動の時代を経験してきたことだろうかと思わずにいられない。一方で、日本から遠く離れた台湾の、しかも島の南端に近いこの山奥まで、よくも若い女性教師が赴任したものだと、そちらにも感心する。
「あの頃は、電気もガスもないでしょう。水汲みは子どもの仕事ね。朝、水汲みして、それから学校に行って、帰ってきたら今度は米を搗(つ)く。主食は、米と里芋」
「ご馳走は、山豚とキョン(シカの一種)だね。親父が獲ってきて、天井から吊してある干し肉を、盗み食いしてよく怒られたんだ」


黄余来文さん(日本統治時代の氏名は岡本七郎さん)は名前の通り、七人兄妹の末っ子だったという。現役の猟師で、今もキョンなどを獲りに山に入る。


林却さん(日本統治時代の氏名は西島ハルコさん)は最近、大病をしたと言い、それまでは大好きだった歌が歌いにくくなっていた。それでも皆が歌うと懐かしげに微笑んでいる。

 当時、酒と煙草は若い男たちだけの嗜好品だった。それでも粟(あわ)や糯米(もちごめ)で作る酒を、子どもたちも悪戯して呑んでしまうことがあった。赤い顔をして学校に行って、いくら日本人の先生に厳しく指導されて叱られても、子どもたちはけろりとして野山を駆けまわり、家の仕事を手伝い、快活に動き回っていたのだろう。その姿が目に浮かぶようだ。
 だが戦時色が濃くなってくると、物資はどんどん供出させられるようになり、ただでさえ貧しい村はさらに貧しくなった。「非常時だから」と、子どもたちはいつもパンツ一枚で過ごしていたという。やがて、村の若者たちは高砂義勇隊として出兵していくようになる。
「高士神社で会おう」
 それが、彼らの合い言葉だったそうだ。これは日本本土の出征兵士たちが「靖国で会おう」を合い言葉にしていたのと呼応している。皇民化の一環として台湾全土に建てられていた神社が、この村にもあった。神社の祭神は天照大神だったが、もともと信心深い村人たちはパイワン族の神も共に祀り、皆で大切にしていたという。祭りの時には白装束の神主さんが団子を撒き、民族衣装の村人たちが、その団子を競い合って受け取った。結婚式も神社で行ったそうだ。
「そのうち戦争がひどくなったら、アメリカ軍の爆撃も受けたよ」
「炊事してるときの煙をめがけて爆弾を落とすんだ。向こうの蕃社(原住民族の集落)では、それでお母さんと娘が死んじゃった」
「いつも、アメリカ軍は海の方から来たね。それを、山の上から見ててね」
 そして敗戦。日本による台湾統治時代は幕を閉じ、代わって中華民国政府による統治の時代に入る。日本語は禁じられ、日本式の姓名はすべて改められて、台湾各地に建てられていた神社も取り壊された。高士神社も例外ではない。
 もともと台湾は多くの台風の通り道になっている上に、屏東の山岳地帯には秋から冬にかけて強い季節風が吹く。そのため高士村も過去に何度となく被害を受けてきた。被害が大きかったときは村全員で住むところを変えなければならなかったり、学校を建て替えたりもしてきたという。そんな厳しい環境の中では、高台にある高士神社は野ざらしのまま朽ちるに任せるしかなかった。村人たちは悲しんだ。このままでは「高士神社で会おう」を合い言葉として戦地へ赴き、生命を散らした若者たちの魂は、帰る場所がないままさまよい続けなければならないのではないか。何とかして彼らの魂が安らかに眠る場所を再建することは出来ないものかと願い続けて、機会さえあれば広く訴えていた。
 高士神社が日本人神職によって新たに拝殿を構え、戦後台湾で初めて神社として復活したのは2015(平成27)年のことだ。神社再興までには紆余曲折があったが、日本で造られた総檜の拝殿は無事に船で運ばれ、戦前の高士神社があった土台石を修繕した上に、村人総出で据えられた。祭神は「髙士佛戦没之霊神」となっている。戦後70年間、村人たちが心配し続けていたさまよえる魂たちは、ここにようやく鎮まる場所を得たことになる。翌年には鳥居も立てられた。台湾には各地に、日本統治時代に立てられた神社の鳥居が、時には移築され、あるいは横倒しにされて、それでも残っているのを見かけるが、戦後新たに立てられた鳥居は高士神社が初めてだ。


2015年に日本人によって再興された高士神社。強風にさらされる高台にあるため、風よけに守られているが、それでも強烈な台風によりアクリル板が破損する場合がある。

 高士神社の鳥居の下に立つと、天気のいい日には眼下に八瑤湾が見わたせる。150年近く前に遭難した宮古島の人たちが、命からがら上陸した場所だ。時代が変わり、かつて蕃刀を向けてくる人がいた村に、こうして新しい鳥居が立つとは、何とも不思議な巡り合わせだ。
「神社も新しくなって、今は台湾のあちこちから人が来るようになったから嬉しいよ」
「年寄りばっかりになって、この村はもうなくなるのかと思ったけど」
 お年寄りたちは、もっと色々な人たちに自分たちの神社を見て欲しいと口を揃えた。そのために、みんなで神社の周りをきれいにして野牡丹の花をたくさん植え、野牡丹神社公園として整備しているのだそうだ。
「もっともっと、大勢の人に来てほしいからね」
「クスクスが有名になるなんて思わなかった」
 話すごとに陽気になって、ついに彼らは「乾杯しよう」と言い始めた。運ばれてきたのは糯米の自家製酒だ。男性はともかくとして、80代の女性が大丈夫なのかと心配になったが、彼女たちは小さなグラスに満たされた酒を見事に飲み干し、そして、パイワン族の言葉で「乾杯の歌」を歌ってくれた。


高士神社初の台湾人による純和式結婚式は滞りなく執り行われた。門出を祝って立つ彼らの眼下には遠く八瑤湾が見渡せる。


花嫁の愛犬もちょっとお洒落をして式に参列。友人たちに守られて終始おとなしくしていた。

 2019年、日本の元号が平成から令和に代わって間もない5月初旬、高士神社でひと組の台湾人カップルが結婚式を挙げた。もともと日本文化が大好きで、この神社が再建されてからは正月のたびに初詣に来ていたという漢族系の青年が、是非とも完全な日本式で式を挙げたいと希望してかなったものだった。青年は台南、花嫁となる彼女は新竹の出身で、客家(ハッカ)だという。
 その日、朝のうちは雨が降ったが、やがて強風に雲は飛ばされ、明るい陽が射した。新郎は羽織袴、新婦は白無垢に文金高島田という完璧な出で立ちで、彼らは戦後台湾で初めて、原住民族の村に建つ神社での神前結婚式に臨んだ。式は日本人神官によって恙(つつが)なく執り行われ、新郎が読み上げた誓詞もすべて日本の古語という完璧なものだった。
 披露宴には村の人たちが用意してくれた料理がずらりと並び、パイワン族の音楽と共に皆で踊るひとときもあった。原住民族、漢民族、日本人、小さな村にあらゆる人々が集い、村は一日中、賑わった。


結婚披露パーティーの料理は現地のパイワン族の人たちがすべて用意した。山鳥の蒸し焼きも食べやすい形になっている。


台湾の原住民族は粟や稗(ひえ)を主食にしたり、祭祀に使ったりする。糯粟(もちあわ)を使ったちまきは一番人気だった。中央のラッキョウは、沖縄の島らっきょうによく似ている。

 この二人にあやかりたいと思うのか、いま、高士神社は恋愛成就に御利益があるという評判を呼んで、多くの若い人たちが訪れている。高台にそびえる白い鳥居をバックに写真を撮ってSNSに載せる人も多い。日本との複雑な歴史を背負い、過疎と高齢化に悩んでいたパイワン族の村は、かつて経験したことのない新たな時代に入ろうとしているのかも知れない。


キクラゲは高士村の名産だという。肉厚で歯触りがよく、散らしてある野の草花も美しい。


紫芋はあっさりした甘さ。他にも黄色、オレンジと、芋だけでも豊富。


オクラとヤングコーン。素朴な食材が心のこもった盛り付けでご馳走の一品に。

協力◎一般社団法人日本台湾文化経済交流機構 ◎プロジェクト「まごころ日本」
©Project Magokoro Nippon  ※日本台湾文化経済交流機構は日本統治時代の歴史建造物等の保存及び伝承、台湾と日本の良質な文物を相互に伝える活動を行っています。

著者情報

乃南アサ(のなみ・あさ)

1960年東京都生まれ。早稲田大学社会科学部中退後、広告代理店勤務を経て、1988年『幸福な朝食』が第一回日本推理サスペンス大賞の優秀作に選ばれ、作家デビュー。1996年『凍える牙』で直木賞を、2011年『地のはてから』で中央公論文芸賞を受賞。2016年に『水曜日の凱歌』で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞した。他の作品に『花盗人』『団欒』『いつか陽のあたる場所で』『しゃぼん玉』『六月の雪』『美麗島紀行』『ビジュアル年表 台湾統治五十年』などがある。

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度重なる台風により被災された皆様に、心からお見舞い申し上げます。
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一日も早く復旧がなされますよう心よりお祈り申し上げます。

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