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Nonfiction

読み物

美麗島プリズム紀行 乃南アサ

第11回 ピンク色に引きずられた日

更新日:2019/07/17

 蓮霧、という果物がある。台湾の人は「レンブー」とか「リェンムー」とか呼んでいて、今一つ正確なところが分からない。日本人丸出しで「レンム」と呼んでも通じてしまうから、まあ大体そのあたりなのだろう。
 この蓮霧、初めて食べたのはさる町工場でだった。お茶うけに、何等分かに切り分けられて大皿に並べられていたその果物は、一見して「美味しそう」とは思えないものだった。くすんだピンク色の皮がついたまま、リンゴのように白い果肉を見せているが、そう瑞々しそうにも見えず、味気なさそうな感じがして、台湾で食べられる他の果物のイメージからは相当にかけ離れていたからだ。
 台湾は何といっても果物の宝庫。マンゴーやパイナップル、バナナばかりでなく、パパイヤ、パッションフルーツ、ライチー、ドラゴンフルーツに釈迦頭など、どれをとっても華やかな印象が強い。それなのに、当時は名前さえ知らなかったその果物は、あまりにも地味に見えた。
「さあ、どうぞ。さあ」
 殺風景な町工場の片隅で、鉄パイプの丸椅子に腰掛け、紙コップに注がれたお茶をすすりながら、すすめられても笑ってごまかしていたら、ついに爪楊枝で刺した一切れを差し出されてしまった。これでは断り切れない。私は爪楊枝を受け取り、その果物を口に運んだ。
 ──え?
 ひと口食べて、目をみはった。何という歯ごたえだろうか。リンゴとは違う。むしろ梨に近いかも知れない。だが、もっと空気をたっぷり含んでいる感じがして、軽く、柔らかい。シャク、シャク。香りはほとんどなく果汁も多くないが、ほどよい甘さがある。シャク、シャク、生まれて初めて味わう食感だ。思わず二つ目に手を伸ばした。シャク、シャク。面白い。食べていて心地好いのだ。
「これ、何という果物ですか?」
「蓮霧ね」
「レンム?」
「蓮霧」
「レンブ?」
「蓮霧」
「──どんな字を書くんですか?」
 何かしらの意味合いを読み取りたくなる、何ともドラマチックな字面だと思った。以来、蓮霧は台湾で必ず食べたい果物の一つになった。そうしてあるときから、この果物は一体どんな風に木になっているのだろうかと思い始めた。
「蓮霧が穫れるのは南の方です。屏東が有名ですよ」
 屏東県は、台湾の最南端に位置する。すぐ北にある工業都市・高雄とは一変して、緑豊かな地域だ。東側の山脈地帯は主にパイワン族の人たちが多く暮らす集落が点在しているが、西側の沿岸部は景色も美しく、いわゆるリゾート地が多い。
 蓮霧は大体、暮れから春の終わりにかけてが収穫時期だという。そこで高雄よりも北に位置する台南まで行くことになっていた春のある日、一日かけて蓮霧農家を訪ねる計画を立てた。
 早朝、台南を出発して幹線道路を南下していくと、次第に周囲の風景がのどかになってきた頃、途中の道ばたに「黒珍珠」という看板がいくつも目立ち始める。以前からこの道を通る度に、何となく気になっていた。珍珠というのは真珠のことだ。だからてっきり、この辺りの海では真珠の養殖もしているのだろうか、黒真珠が採れるのかと思っていた。だが、こんな道路際に手書きの看板を出して売っている真珠など、どうせ大したものでもないだろうと勝手に推測したものだ。
「黒珍珠は蓮霧の銘柄です。一番の最高級品ですよ。大きくて、すごく甘くて美味しいけど、高いよ」
 あ、そうだったのかと、今度は真剣に黒珍珠という看板を出している店に目を凝らすようになった。だが、店先に並んでいるものが何となく違う。大きな赤いネットに入れられた、何やら薄茶色のものが積み上げられているのだ。
「蓮霧に見えないけど。日本のタマネギみたい」
「あ、ここはタマネギも産地ですよ」
 真珠ではなくて蓮霧でもなく、タマネギなのかと、拍子抜けした。私の印象では、タマネギというと淡路島か北海道なのだが、タマネギ栽培に気温は関係ないのだろうか。あれこれ考えているうち、車は幹線道路をそれて行く。そうして着いたのは屏東県でも高雄に近い、林邊郷というところだった。さあ、いよいよ待望の蓮霧畑が見られる。いやが上にも気持ちが高まってきた。ところが、その出鼻を挫くように、まず立ち寄った農協での対応は何とも素っ気ないものだった。
「わざわざ行って見るようなものでもないですって」
 ガイドが困ったような顔をしている。予め取材申し込みをしてあるにも拘わらず「招かれざる客」といった感じだ。一瞬、蓮霧の栽培には、それほど外部の者に知られたくない秘密があるのだろうかと思った。だが、それなら取材など受けるはずがない。とにかく、農家に案内してもらい、農協の人が声をかけると、よく日焼けしたご主人が、訝しげな表情で出てきた。
「蓮霧の実には袋をかけてあるから、見たってしょうがないって言っています」
 まただ。何だか感じが悪い。だが、考えてみれば観光農園でも何でもない、純然たる田舎の農家だ。都会の人のような如才なさなど身につけていないだろうし、よそ者に対しては警戒心を抱くのかも知れなかった。ましてやこちらは言葉の通じない外国人だ。訝しく思われるのも無理もないかも知れないと自分に言い聞かせる。たとえ、予め取材の申し込みをしてあったとしても。
 こういう感覚は、実は台湾を旅していると意外に新鮮だったりする。人なつこく親切な人が多い上に親日家が多いせいもあって、どこに立ち寄っても、さして苦労もせずに誰かしらと言葉を交わすことが出来る場合が多いからだ。場合によっては見ず知らずの旅人を、あっさり自宅に招き入れてくれたりもする。だから自然とこちらも皆に親切にしてもらえると思い込みやすくなっているのかも知れなかった。
「お仕事の邪魔はしません。お手間は取らせませんから」
 通訳を介しているのだから、こちらが意図しているくらい、どれほど丁寧に伝わっているかは微妙なところだが、とにかく出来るだけにこにこと愛想良くして、取りあえずは蓮霧の畑へ案内してもらえることになった。ご主人は、物好きな連中が来たものだというような顔つきで、私たちの前に立って歩いていく。そうして行った先に広がっていた畑は、蓮霧の果実同様に、さしたる個性も感じられない木々の広がりだった。だがよく見れば、確かにそこここに白い果実袋がかけられている。中に、袋の外れているものもあった。
「あった、蓮霧! こんな風になるんだ。へえ!」
 初めて目にした収穫前の蓮霧だった。一本の軸に三つ、四つとまとまって、放射状に垂れ下がるように実がついている。電球にも似た、または洋梨のようにも見える果実は、街の果物店で見るときよりもつやつやとしていて、地味ながらも美しい。嬉しくなって盛んにカメラのシャッターを切るものだから、ご主人もようやく表情を緩めて「ほら、ここにも」「こっちにも」と言うように指さしながら、畑の中を歩きまわってくれた。


蓮霧。果たしてどんな姿でなっているのかと思ったら、意外だった。傷みやすく、虫もつきやすいことから葡萄や梨のように袋をかけて栽培される。


蓮霧の花。蓮霧はフトモモ科に属するマレー半島原産の果物だという。


蓮霧畑の間に植えられている檳榔樹。果実は有毒だが、花は食用になる。淡泊で美味しい。

 ところが、表情は穏やかになったのに、ご主人は話しながら、引っ切りなしに地面にぺっぺっと唾を吐き出す。何か気に入らないことでもあるのだろうかと首を傾げるうちに、檳榔(びんろう)を嚙んでいるのだと気がついた。台湾でも都市部では今や敬遠されることの多い檳榔だが、地方や農漁村に来ると、まだまだ普通に消費されているらしい。それに見回すと、蓮霧畑の隙間には、ずらりと檳榔樹の木が並んでいる。すると、ご主人が嚙んでいる檳榔はおそらく自家製なのに違いなかった。当たり前の、嚙み煙草程度の感覚なのだ。
「蓮霧の栽培で難しいところは、どんなことですか?」
「まあ、色々、と言っています」
「──この木は、寿命はどれくらいなんですか?」
「まあ、大体、と言っています」
「私は蓮霧が大好きなのですが、日本に輸出するような動きはないんでしょうか」
「ないそうです」
 とりつく島がなかった。これでは肩透かしもいいところだ。いつもなら、予定の時間を大きくオーバーして話が盛り上がったり、脇道にそれたり、また思わぬ展開が待ち受けていたりすることが当たり前なのだが、早くも白々しい雰囲気になってしまっている。
 無言で畑を歩きまわった後、今度は選果場に連れていってもらった。蓮霧は果皮が非常に薄くてデリケートな果物だ。傷みも早い。それが輸出に適さない一番の理由でもあり、だから私たちは日本でこの果物を口にすることが出来ないのだが、実際に集荷場を見てみると、収穫した蓮霧にはすぐに一つ一つ手作業でネットを被せ、その上で大きさや品質に合わせて出荷されていくのだということが分かった。
 作業は女性たちの仕事らしかった。誰もが帽子を被りマスクをしているから、年齢も顔つきも分からない。こちらを気にするような人もいなければ見向きもせず、何か話しかけようにも、タイミングがまるで摑めなかった。目が合いそうになっただけで、すっと横を向かれてしまうのだ。檳榔を嚙んでいるご主人は、そんな女性たちの仕事を一通り眺めると、私たちのことに構う素振りも見せず、どこかへと立ち去っていった。もう少し色々と聞いてみたいところだったのに、訪ねた礼を言う間さえなかった。
 手持ち無沙汰のまま、しばらく選果の作業を眺めていたが、結局、その農家で扱っている一番高価な蓮霧を1ケース買って、それで帰ることにした。とはいえ、誰に頼んでどこで支払いをすればいいのかも分からないくらいの、放ったらかし状態だ。何とか事務仕事もやっているらしい若い女性を捕まえて、普段、街の青果店などでは見かけたこともない立派な蓮霧を売ってもらった。


集荷場に集められた蓮霧。皮が薄いため、扱いはあくまで丁寧に。これから次々に手作業でネットを被されていく。


この畑で作られている最高級の蓮霧。色の黒い「黒真珠」とは違う種類、大きさも甘さも格別。

「時間があまりましたね」
「どうしよう」
 まだ昼になるかならないかという時間だ。せっかく早起きして来たのに、高い蓮霧だけ提げて昼前に帰るというのでは、どうにも報われた気がしない。こんなはずではなかったとため息をついていたら、この近くに桜エビの揚がる漁港があると、ガイドが教えてくれた。
「桜エビ?」
 頭の中が蓮霧のくすんだピンクから、桜エビのピンクにと、ぱっと切り替わった。日本で桜エビといったら駿河湾限定。しかも貴重だ。その桜エビが台湾でも捕れることは知っていたが、それがこの辺りだとは知らなかった。水揚げの様子を見られるとしたら、もう言うことなしの一日ではないか。
「行きましょう、桜エビ!」
 意気込んで車に乗り込み、向かった先は十分も走るか走らないかというところで着いた東港漁港という港だった。車を駐められるスペースを探してぐるぐると走り回る間にも、いかにも港町らしい人々の姿が見えてくる。リアカーを牽いて歩く人、ゴム長姿の男たち、その向こうには船のマストらしいものも見えた。さっきまでの蓮霧農家の農村風景とは打って変わって、いかにも開けた雰囲気だ。車から下りると早速、潮の匂いに包まれた。
「向こうに市場があるみたいです」
「誰でも入れるんでしょうか」
「大丈夫と思いますよ」


東港漁港。大きな漁船はほとんど入っていない、こぢんまりとした漁港だ。


桜エビを目指して行った東港漁港だが、シンボルはカジキらしいとこれで知った。ただし、デジタル時計は壊れていた。


漁船で働く若者たちは、誰もが陽気そうに見えた。風貌からして原住民族の人たちだろうか。


雑然としているようで整然としているような競り場。水揚げされたばかりのマグロやカジキにどんどん値がつけられていく。

 人々が歩きまわる間を縫うようにして、私たちは競りが行われるらしい屋根つきの建物に向かった。その時点で、頭の中にはいくつものケースに、山のように盛られた桜エビが思い描かれていた。水で濡れているコンクリートを踏んで、市場に足を踏み入れる。思っていたよりも人の姿がまばらなのは、もう大半の桜エビが競り落とされた後だからかも知れない。そう、桜エビが。
 日光の届かない屋根の下で、まだ残っている人々の隙間から、地面に並ぶものを見た。
「──あれ」
 思わず足が止まった。ピンク色のものが見えていなければならないはずなのに、そこに見えているのは銀色だったり黒っぽかったりして、長々と横たわる魚ばかりだ。近づいてみると、全体の姿と頭の先端部が切り落とされていることから、どうやらカジキらしいと分かった。こちらに並べられているのはマグロだろうか。なるほど、こういう魚も揚がるのか。それで、桜エビはどこだろう。
 私はまだ桜エビが見られることに寸毫の疑いも抱いていなかった。漁港なのだから、それはマグロも揚がればカジキも揚がるのだろう、というくらいに考えていた。関係者の邪魔にならないように、桜エビを探してぐんぐん歩いた。だが、歩けども歩けども、桜色の物体など何一つ見えてこない。
「──桜エビは?」
 狭い市場の端まで行ったところで、途方に暮れた。桜エビが、見えない。
「時間帯が、違うのかも知れません」
 ガイドが、自分を責められても困るといった顔つきで、しごく冷静に言った。
 何ていう日。
 私はすっかり意気消沈して、それでも未練がましく、まだしばらくは市場で働く人々や、漁を終えた船などを眺めて過ごした。
 それにしても、市場で働く人は女性が多かった。男たちに交ざって、大人の背丈くらいはありそうなカジキやマグロを手鉤で引き、まとめて台車に載せ、バイクで運んでいく。先ほどの蓮霧農家の選果場もそうだった。女性はいつでもどこでも、実によく働く。
 次第に人がまばらになっていく市場に取り残された格好で、私はしばらく、それらの人々を眺めて過ごした。おそらく再び訪れる機会はまずないだろうと思うこの土地のことを考えるとき、蘇るのは蓮霧でも桜エビでもなく、結局はこうして素っ気ないほどひたすらに、ただ黙々と身体を動かす女性たちの姿に違いないと考えていた。


かなりの重さがあると思うマグロだが、女性が手鉤一つで引いていく。


片手にスマホ、片手に魚。働く女性は忙しい。バイクに囲まれている狭いところでも商売している。


仕事に一区切りついたのか、それぞれ家路につく女性たち。帽子の人もいるが、昔ながらの笠も重宝している模様。顔が見えなくても服装は出来るだけ女性らしい色を好むらしい。


どこででも重宝しているのはスクーター。ヘルメットなど被らず、笠のままで帰る。翡翠のブレスレットがお洒落。

協力◎一般社団法人日本台湾文化経済交流機構 ◎プロジェクト「まごころ日本」
©Project Magokoro Nippon  ※日本台湾文化経済交流機構は日本統治時代の歴史建造物等の保存及び伝承、台湾と日本の良質な文物を相互に伝える活動を行っています。

著者情報

乃南アサ(のなみ・あさ)

1960年東京都生まれ。早稲田大学社会科学部中退後、広告代理店勤務を経て、1988年『幸福な朝食』が第一回日本推理サスペンス大賞の優秀作に選ばれ、作家デビュー。1996年『凍える牙』で直木賞を、2011年『地のはてから』で中央公論文芸賞を受賞。2016年に『水曜日の凱歌』で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞した。他の作品に『花盗人』『団欒』『いつか陽のあたる場所で』『しゃぼん玉』『六月の雪』『美麗島紀行』『ビジュアル年表 台湾統治五十年』などがある。

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謹んで令和元年台風災害のお見舞いを申し上げます。

度重なる台風により被災された皆様に、心からお見舞い申し上げます。
また、被災地等におきまして、避難生活や復興の支援など様々な活動に全力を尽くしていらっしゃる方々に、深く敬意と感謝の意を表しますとともに、
一日も早く復旧がなされますよう心よりお祈り申し上げます。

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