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美麗島プリズム紀行 乃南アサ

第10回 暑く、熱く、篤い街・高雄

更新日:2019/06/19

 その形をサツマイモにたとえられることもある縦に長い台湾は、中央部を北回帰線が通っている。北回帰線よりも北が亜熱帯気候、そして南は熱帯気候だ。南部に位置する台湾第3の都市・高雄も熱帯の都市ということになる。実際、日本が真冬の頃でも昼間の気温が30度に達する日は珍しくない。
 高雄は、日本が統治を始めた頃には「打狗」と表記されていた。もともとこの地に暮らしていた原住民族であるマカタオ族がつけていた地名「ターカウ」という発音に漢字を当てはめたものだ。ターカウの意味は「竹の林」だというから、竹藪の多い土地だったのかも知れない。打狗という漢字を選んだ漢民族たちは、現在の中心部からは少し外れた左營や鳳山といった地域を中心に暮らしていた。海からはある程度、離れている場所だ。当時の地図を見てみると、日本が統治し始めた頃の打狗沿岸部は細長い砂州と哨船頭という岬に囲まれた湾があって、湾に向かっている広い地帯は塩田と養魚池になっている。つまり、現在では高層ビルや高級ホテルなどが林立する場所は、かなり奥まで海水が入り込んでいた砂地で、ほとんど陸地と言えない状態だったことが分かる。
 1895年に台湾統治を始めてからほどなくして、台湾総督府は入念に打狗港の調査を行い、それまでは漁業や、せいぜいイギリスとの交易に使用されていた程度の港を、海軍の補給港とすることに定めた。そこから猛烈な勢いで港と周辺の整備・開発を始める。
 遠浅だった湾を浚渫して大型船が入れるまで深くし、港の近くまで鉄道を敷く。また塩田や養魚池はすべて埋め立て、そこに計画的な都市を造るという具合だ。それらの工事はすべてほぼ同時に進んでいった。漁業や農業、また製糖業などが細々と営まれているだけだった田舎の村は、短期間のうちに大きく変貌を遂げることになる。
 1920(大正9)年、地方制度実施に伴い、打狗という表記は高雄と改められる。「狗(いぬ)を打つ」というのでは卑俗だという理由から、発音が近く、また日本にもある地名の高雄を選んだのだそうだ。そして日本は高雄を「南進の拠点」と位置づけた。港の整備が進むと、石油精製所や造船所、製鉄工場などを次々と建設していく。そのときから高雄は台湾随一の重工業都市として成長を続けることになる。都市の表情は日本統治時代以降も変わることなく、現代に至るまで引き継がれてきた。一方、港周辺の古い街には現在でも日本統治時代の面影が随所に残っているから、歩いていると妙に懐かしい風景に出会ったりする。


日本統治時代は「山形屋」という書店だったという建物。右手道路の正面には旧高雄港駅の名残として蒸気機関車が駐まっていた。


日本統治時代の建物を活かして歴史を学ぶ空間などが造られている。校外学習らしい中学生が大勢集まっていた。


同じく日本統治時代の建物をNPO法人がリノベーションして、現在はカフェになっている。店内には日本統治時代の様々な品物などもさり気なく置かれており、大黒柱には上棟式の飾りもつけられている。


界隈を歩いていると朽ちるに任せた状態の日本家屋を頻繁に見かける。熱帯の強烈な陽射しに焼かれて白茶けた印象なのがもの哀しい。


日本統治時代の町並みを再現したようなレストランは、訪れる人の想像力をかき立てる。昔の看板などが並び、列車も置かれているが、よく見ると中華民国に入ってからの看板や人形もあって、少しばかり混在。「往事」という意味では一つか。

 そんな高雄の街を車で走りながら、青く突き抜けた空に入道雲が高くそびえ、南国らしい木々が大きな葉を揺らす風景などを眺めると、いかにも熱帯の街に来た気分になる。
「だけど工業地帯ですから、空気は悪いんです。特に最近は大陸からPM2.5も飛んできていますからね」
 地元の人は困った顔で言う。そういえば、高雄の朝はいつでも天気が今ひとつ分からない。毎朝ぼんやりと曇っているようで、景色も霞んでいるのだ。今日は天気が悪いのだろうかと思っていると、やがて霞を突き抜けるように強烈な陽射しが街を照らし始め、気温がぐんぐん上昇していく。てっきり朝靄なのかと思っていたが、もしかすると大気汚染のせいなのだろうか。
 そんなことを考えながら市街地を走り抜けるとき、かなりの割合で頻繁に通ることになる大きなロータリーがある。そこには四方に特徴的な三角形をした、ガラス張りのオブジェのようなものがある。夜になると照明で美しく浮かび上がるから余計に印象的なのだが、実はそのオブジェのようなものが、地下鉄である高雄捷運(KMRT)の入口なのだった。「美麗島駅」という。
 美麗島とはポルトガル語の「イーリャ・フォルモーザ」を訳したものであり、台湾そのものを意味している。するとつまり「美麗島駅」とは、台湾を象徴する、または代表する駅ということなのかと、通りすがりの旅行者はごく単純に考えてしまう。
「いいえ。この場所が『美麗島事件』の舞台になったからです」
 美麗島事件とは1979年12月10日、世界人権デーに起こった、市民の民主化運動に対する政府の弾圧事件だ。国民党による一党独裁に反対し、議会制民主主義を主張する市民勢力に向けて警察や治安部隊が動員された結果、相当数の逮捕者を出すことになった。『美麗島』とは当時、自由と民主主義を標榜する新政党を立ち上げることを最終目標として、台北で発刊された雑誌の名前だった。
 政府の反対勢力ともなり得る雑誌は発刊後順調に発行部数を増やしていき、事件が勃発する直前には8万部を記録することもあったという。その『美麗島』が主催して、世界人権デーに合わせて高雄でのデモを計画したのだった。ところが当日になって当局からデモ中止を言い渡され、会場とされていた場所も閉鎖されてしまう。そこで主催者側は市の中心部にあるロータリーに集合場所を移した。大勢の民主化グループや『美麗島』読者、市民が集まった。すると、市民らと警察や治安部隊との間でにらみ合いになり、ついに治安部隊が催涙弾などを使用したために現場は大混乱に陥った。
「学校では禁止されていましたが、当時、高校生だった私も、実はその場所に行っていたんです。すごい熱気でした。そして、当局の仕打ちもしっかりとこの目で見た。二二八事件のことを思い出しましたよ」
 二二八事件というのは、戦後間もない1947年2月28日に台北で発生し、その後、台湾全土に広がった、国民党政府による大規模な本省人弾圧・虐殺事件だ(本省人とは日本統治時代以前から台湾で暮らしてきた漢民族系の人々のこと)。その犠牲者数は1万8000人から2万8000人とも言われており、正確な数は現在でも把握出来ていない。今なお行方不明のままになっている人が少なくないからだ。侯孝賢(ホウ・シャオシェン)監督による映画『悲情城市』は、この二二八事件を背景に描いている。
「美麗島事件のとき、陳菊さんは牢屋に入れられて、そこで遺書まで書いたんですよ。その遺書が今も残っていて公開されています」
 陳菊さんとは、2006年から2018年まで高雄市長を務め、現在は蔡英文総統の下で台湾総統府秘書長の座にある女性。彼女は美麗島事件の時に反乱罪で起訴された活動家8人のうちの一人で、懲役12年を言い渡された。そして6年間入獄した後、李登輝政権の時に名誉回復され、それから民主進歩党(民進党)の結成に参加した。そんな苛酷な経験を経てきた人物が市長をしていたというだけでも、高雄という都市が自由と民主主義の牙城として存在してきたということが分かるだろう。
 ガラス張りの入口は日本人建築家・高松伸によるデザイン。その形は人の手が祈る形に見える。さらに驚かされるのは、その地下だ。ちょうどロータリーの下に位置する広々としたコンコースが、天井全体を「光之穹頂」と題された大ステンドグラスで覆い尽くされているのだ。イタリア人アーティスト、ナルシッソス・カグリアータによるこの作品も、やはり祈りをテーマにしているという。色彩の変化と共に太陽と月、生命の起源など、見る人によって様々に感じる世界が繰り広げられていて、立つ位置によってまったく異なる見え方をする。


高雄捷運(地下鉄)の美麗島駅入口。かつて「美麗島事件」の舞台となった大きなロータリーを取り囲むように設置されている。


美麗島駅入口。人の手の祈りのポーズをかたどったと言われるデザインは日本人建築家・高松伸によるもの。夜はライトに浮かび上がる。


美麗島駅の地下コンコース。圧倒的な存在感を誇るステンドグラスの天井は1日に3回、照明が変化するショーが見られる。地下鉄は利用しなくても、カメラを構えてショーの時間を待つ人も多い。


ステンドグラスは4500枚のガラス板が使われている。この場所がどういうところだったのかを考えさせられると同時に、見上げる角度によって、ダイナミックかつドラマチックな生命のドラマを感じる。

 地下鉄の駅に、よくぞこんな空間を作ろうとしたものだ。しかも、よく予算が下りたものだなどと感心するうち、要するにそれが「美麗島事件」に対する高雄の人々の思いなのだろうということに気づく。多くの高雄の人たちは、あの時の民主化への熱情と信念とを忘れまい、そして台湾を、あくまで台湾らしく存続させたいと、強く願ったのに違いない。台北などの北部に比べて、戦後大陸から渡ってきた、いわゆる外省人が少なく、今も日常的には標準語と定められた北京語ではなく、昔ながらの台湾語(閩南語)で会話する人が多いという高雄は、それだけ「台湾人」としての意識も強いのかも知れない。そんなことを知っていくと、高雄という都市が単に無機的な印象を与えるばかりの重工業都市ではないことに気づく。
「もちろんです。他の土地の人からは、高雄の人は荒っぽいなんて言われることがありますが、すごく人情が豊かで義理堅いんです。一度、打ち解けたら、もうずっと兄弟」
 だから日本人にも親しみを抱いている人が少なくないそうだ。鄙びた漁村だった高雄の基礎を作ったのが日本人であり、その上に現在があるということを、誰もが忘れていないからだと言われた。
「だから、日本の軍艦を神さまにしているお寺があるくらいですよ」
 軍艦ですか、と、思わず聞き返した。台南で、日本軍兵士が神さまになって祀られている廟は訪ねたことがある。だが、軍艦とは。そうして案内されたのが、高雄国際空港にほど近い場所にある「紅毛港 保安堂」という廟だった。この空港も、日本統治時代の1942年に旧陸軍の小港飛行場として造られたものだ。保安堂の周辺は新興住宅地らしい一帯で、飛び立つ飛行機が大きく見えた。そういう地域に建つ廟は、まず台湾の寺廟にしては珍しく青く艶やかな瓦が葺かれていて、普通なら龍をはじめとする様々な装飾が色鮮やかに、また波打つように施されているものなのに、それらの装飾もまったくない。ある意味、日本風にも見えた。一方で、歴史の重みというものはさほど感じない。
「新しいんです。もともとは紅毛港という港町に建っていたのが、立ち退きになって、ここに建て直すことになりました」
 なるほど。そのせいもあって全体にすっきりとしていて重苦しさもなく、明るい印象なのだろう。入口には、咲き誇る桜の一枝と共に描かれた富士山の額が掲げられている。本当に日本を意識しているのだなと改めて見回せば、庇の宝鐸(ほうちゃく)を模した飾りには、旭日旗に水兵がいる。日本でもちょっと見ないほどの「日本っぷり」だ。
 中に入ると、立派な龍柱は日本人が寄進したものだと説明が添えられていた。鳥居や御神輿まである。黄金の龍を背景に、ご本尊として祀られている神さまの中でことに三柱が大きいが、その中に一柱、異彩を放って日本海軍の白い制服を着た神さまがいた。名を「海府大元帥」という。
 海府大元帥は、もともとは1946年に漁民の網にかかった頭蓋骨だったのだという。他の神さまも同様に、海で見つかった骨だった。紅毛港の漁師たちは、そういった哀れな骨などが見つかる度に供養してやり、海の安全や豊漁を祈ってきたのだろう。
 年月を経た1990年、日本語がまったく分からない、とある人物が突如として日本語で語り出した。
「自分は日本第三十八号哨戒艇長である。太平洋戦争で軍艦を沈められ、部下と共に戦死した。自分は今も部下らと共に、日本の護国神社へ帰りたいと願っている」
 これには、保安堂の信徒たちは大いに驚いた。そして、まずは半信半疑のまま沖縄まで赴き、日本海軍の戦没者に関する手がかりを探した。そこで1944年11月25日、第三十八号哨戒艇がマニラから高雄に向けて航行中にバシー海峡で米国潜水艦により撃沈されたという事実に行き当たる。哨戒艇長・高田又男大尉以下145名が戦死した。
「あの頭蓋骨は、高田大尉だったんだ!」
「海府大元帥は、日本の軍人だったのか」
 信徒たちは、これは海府大元帥ばかりでなく、戦死したすべての兵士の死を悼んでやらなければならないと考えた。そして翌年には軍艦の模型を作成し、それを「神艦」として廟内の左側に供えたのだという。「38にっぽんぐんかん」と書かれた神艦の甲板には、当初は36体、現在では72体の兵士の人形が並び、それぞれが違う兵器を持つなどして異なる任務に当たっている。スイッチを入れれば明かりが灯り、また動く箇所もあるというつくりだ。旭日旗を背景に据えられた軍艦の模型からは厳めしさは感じられず、人形の兵士たちも神さまと呼ぶには愛らしい。だが、そういう形で保安堂の人たちは日本軍の沈没艦を祀り続け、朝に夕に「君が代」や軍歌を流す他、定期的に祭祀も行っているという。その話を知って保安堂を訪ねる日本人も少なくないようだ。実際そういう日本人による感謝の気持ちが様々な形で残されていた。


「紅毛港 保安堂」全景。一見、中華風の廟のようだが、青い屋根瓦と正面のアーチ状の屋根は、やはりどこか違うと感じさせる。からん、と開けた印象なのは新しいのと、新興住宅地にあるからか。


「紅毛港 保安堂」に祀られている神艦「38にっぽんぐんかん」。軍艦と人形の縮尺が合っていない分、コミカルで愛らしい印象を与えるが、込められている思いは熱く深い。


「保安堂」に祀られる神さまの中でひと際目立つ、旧日本海軍の制服を着た「海府大元帥」。この神さまが、ある日、人の口を借りて日本語で語り始めたことによって、この廟では軍艦もまた祀ることになった。


「保安堂」入口正面に掲げられている富士山の額。戦死した日本軍兵士たちの心を慰めようとする思いがここから既に始まっている。

「ビデオを見ていって下さい」
 椅子をすすめられてモニターの前に腰掛けると、やがて「海ゆかば」が聞こえてきて、保安堂について解説されている映像が流れ始めた。その中に、揃いのポロシャツを着た信徒たちが一人一人、戦死した145名の名を書いた旗をそれぞれに掲げて海に向かって歩いていく映像があった。それを見たとき、首筋から後頭部にかけて、ゾクゾクとした感覚が痺れるように駆け抜けた。
 俺はここにいる。
 映像を通して、深い海の底から響いてくるような、呟きとも呻きともつかないものが伝わってくる気がした。彼らの魂は、確かにここにあるのだと思った。
 日本ではほとんどクローズアップされることのない一隻の哨戒艇の悲劇だ。戦後はますます遠くなり、もしかすると145名の戦死者たちの身内の人々でさえも、今となっては当時を記憶する世代は数を減らして、彼らの死を悼み続ける人たちはそう残っていないかも知れない。それなのに、ついにたどり着けなかった高雄の地で、日本人が引き揚げていった後も、こうして台湾の人たちが軍艦ごと祀ってくれていることを、戦死者たちは確かに感じているのに違いなかった。今も一人一人が氏名を書いてもらい、その死を悼んでもらえることによって、冷たい海の底に沈んだ彼らはどれほど慰められていることだろう。
 それにしても、さすがに熱帯だ。じっとしていても後から後から汗が噴き出してきて衣服を湿らせた。それでも石造りの保安堂の中には時折涼しい風が吹き抜けて、黒い台湾犬がひんやりとした石の上で気持ちよさそうに寝そべっていた。決して辛気くさくならないように、むしろ出来るだけ明るく、海に散った若い兵士たちの慰めとなるようにと、堂内には舞い踊る芸者の絵までが掲げられている。そんな人々の思いを受け取って、日本の軍艦と軍人たちが今も、またこれからも、こころ穏やかにこの土地の人たちを見守っていることを願わずにいられなかった。


高雄港の対岸にある旗津は細長い砂州の島。本島とはトンネルでもつながり、またフェリーも頻繁に往復している。ここから眺める夕陽は名物にもなっている。

協力◎一般社団法人日本台湾文化経済交流機構 ◎プロジェクト「まごころ日本」
©Project Magokoro Nippon  ※日本台湾文化経済交流機構は日本統治時代の歴史建造物等の保存及び伝承、台湾と日本の良質な文物を相互に伝える活動を行っています。

著者情報

乃南アサ(のなみ・あさ)

1960年東京都生まれ。早稲田大学社会科学部中退後、広告代理店勤務を経て、1988年『幸福な朝食』が第一回日本推理サスペンス大賞の優秀作に選ばれ、作家デビュー。1996年『凍える牙』で直木賞を、2011年『地のはてから』で中央公論文芸賞を受賞。2016年に『水曜日の凱歌』で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞した。他の作品に『花盗人』『団欒』『いつか陽のあたる場所で』『しゃぼん玉』『六月の雪』『美麗島紀行』『ビジュアル年表 台湾統治五十年』などがある。

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  • 集英社創業90周年記念企画 ART GALLERY テーマで見る世界の名画(全10巻)
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度重なる台風により被災された皆様に、心からお見舞い申し上げます。
また、被災地等におきまして、避難生活や復興の支援など様々な活動に全力を尽くしていらっしゃる方々に、深く敬意と感謝の意を表しますとともに、
一日も早く復旧がなされますよう心よりお祈り申し上げます。

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