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美麗島プリズム紀行 乃南アサ

第4回 映画の中の日本家屋

更新日:2018/12/19

 台湾北部、基隆市の近郊に九份という小さな山間の町がある。ホウ・シャオシェン(侯孝賢)監督による映画『悲情城市』(1989年)のロケ地として脚光を浴び、さらに宮崎駿監督のアニメ『千と千尋の神隠し』(2001年)のモデルになったとも噂されることで、日本人にもすっかりお馴染みになった観光スポットだ。台北から日帰り出来る手軽さもあり、また、雑誌やCMの効果もあるのだろうか、訪れる人は絶えることがなく、土日ともなると有名な石段に続く狭い道路には観光バスがずらりと並んで、大渋滞を引き起こすことも珍しくないという。
 かれこれ20年ほど前に、その九份の石段の途中にある茶店に寄って、町を眺めて過ごしたことがあった。入口から軒先まで、赤い提灯がいくつも連なっている店で、風通しも見晴らしもよかったが、当時でさえ町を眺めるというよりも、行き来する人の流れの方に目がいった記憶がある。私の中には『悲情城市』という映画がとても印象深く残っていたから、作品世界の何かを感じ取りたかったのだろうと思う。その後もう一度足を運ぶ機会があったが、結局は土産物店の店先に並ぶ品物が様変わりしたくらいで人混みは相変わらずかそれ以上になっており、途中で立ち止まることもままならない状態に、正直なところうんざりしただけで帰ってきた。
 七月のある日、ドライブの途中でその九份にさしかかった。
「寄ってみますか?」
「いいえ、いいです。やめましょう」
 ガイドの言葉にあっさり首を横に振って、観光バスの行列を横目に見ながら、私たちはさらに曲がりくねった山道を進むことにした。周囲の山はさらに急峻になり、途中に廃墟らしい不気味な建物と煙突が姿を現したり、また切り立った岩場の向こうに青い海が見えることもあった。そうしてたどり着いたのが、金瓜石という小さな町だった。こんな山奥に何があるのだろうかと思っていたら突然ぽっかり開けた場所に出て、意外な心持ちで車を降りた私たちの目に飛び込んできたのは「新北市立黄金博物館」という、文字通り黄金色の文字が掲げられている門だ。
 前述の九份も、もともとは金山として栄えた町だが、この金瓜石でも同様に金が掘られていた。日本統治時代に入ってさらに銀や銅の採掘も始まって大いに栄え、一時は人口も15000人にまで膨らんで、東北アジア一番の鉱山とまで言われたこともあるという。1987年に廃鉱となっているが、その後は辺り一帯が「金瓜石黄金博物園区」として、往事の施設や建物、日本人の住宅跡などが整備され、九份とはまったく趣の異なる、鉱山であったことを前面に打ち出している静かな観光地となった。


金瓜石にある「黄金博物館」の屋根つき通路のゲート。文字の金色が、つい期待させる。

 

 ちょうど、台風が近づいていた。生暖かく湿った風が吹き、頭上を黒い雲がぐんぐんと流れて、時々ぱらぱらと大粒の雨が路面を濡らす天気に加えて、既に夕方近いせいもあっただろうか、全体に何となくもの淋しい雰囲気が漂い、歩いている人もまばらだ。さして興味を惹かれるようなものもなさそうだなと思いながら、それでもぶらぶらと歩いていくうちに、赤煉瓦の塀が見えてきた。塀の向こうに建つのは日本家屋だ。いわゆる棟割長屋風の建物で、一見して鉱山として栄えていた頃の、日本人の社宅らしく見えた。
「この入口、見覚えはないですか?」
 ガイドがこちらを振り向いた。そう言われてみれば、見たことがあるような気持ちにもなるが、金瓜石を訪ねたのはこれが初めてだ。首を傾げていると、ガイドはさらに「思い出さないですか?」と、こちらを試すような顔つきになった。
「この家は『牯嶺街少年殺人事件』の撮影に使ったんです。映画を観てるでしょう? あの主人公の一家が住んでいた家ですよ」
 私は「え?」と聞き返した。頭の中で映画のシーンが猛烈に回り始める。
『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』は1991年に台湾で製作された映画だ。監督はエドワード・ヤン(楊徳昌)。実際に起きた十代の少年による少女殺害事件をヒントとして描いた映画は、様々な映画賞を受賞するなど高い評価を受けたが、日本では公開後に配給元が倒産するなどのトラブルが続いたため、それからおよそ25年間というもの、ソフト化の実現にも至らなかった。その映画がデジタルリマスター化されてリバイバル上映されたのは2017年のことだ。このとき私はようやくこの映画を観ることが出来た。そんな話を、顔なじみになっているガイドには聞かせたことがあったかも知れない。
 映画の舞台となっているのは、1960年前後の台北。多感な少年の揺れ動く心を中心に、恋愛、暴力、友情、家族といったものを多角的かつ陰影豊かに描いている。上映中、私がまず最初に衝撃を受けたのは、主人公の少年一家を始めとする登場人物たちが日本家屋で生活しているということだった。玄関、台所、手洗い、押入。廊下から障子戸に至るまで、スクリーンに映し出される建物は、紛うことのない日本家屋だ。そこで当たり前のように日々の暮らしを営む人たちは、女性は中国服らしいデザインの服を着ているし、畳の上にじかに座る生活も送っておらず、そして、誰もが中国語を話す。そう、台湾語ではなく、中国語。これが、大きなヒントなのだった。
「日本人たちが引き揚げていった後、日本人が暮らしていた町は、どこもひっそりと淋しくなったよ。夜も真っ暗になったしね。だけど、空き家になったところに入りこむような台湾人はいなかったね。それでは泥棒になってしまうから。日本人の家に入ったのは、外省人だ。日本人が残していったものを全部、自分たちのものにして、当たり前みたいな顔をして住み着いたんだ」
 かつて、いわゆる日本語世代の老人から、そんな話を聞いたことがある。終戦前後の台北について、色々と聞かせてもらっている最中のことだった。
 1945年、日本の敗戦によって50年に及ぶ植民地支配に終止符が打たれた後、台湾は中華民国に接収されることになった。当初、台湾に暮らす人たちの大部分である漢民族たちは、これを日本からの解放であり、心の故郷・中国への復帰であると解釈して「光復」と呼んで熱烈に歓迎したという。この時点で台湾は中国の一部と見なされて「台湾省」となり、ついこの間まで日本人だった人々の国籍は中華民国となった。
 1946年、中国大陸で蔣介石の国民党と毛沢東が率いる人民解放軍との間で内戦状態に突入する。戦況は次第に蔣介石側に不利になり、国民党軍は各地を転戦しながら次第に力を失い、追い詰められていった。そして、ついに中国大陸での拠点を失った蔣介石は1949年、家族とともに大陸から台湾へと撤退してくる。それに従う格好で、国民党軍の軍人、兵士、関係者ばかりでなく、大勢の公務員やそれに関係する人々、その家族、国民党支持者など、およそ百万人以上とも言われる中国人が海を渡った。中には自分の意思とは関係なく船に詰め込まれた若い兵士などもいたという。この人たちを「台湾省」の外からやってきた人たちという意味で「外省人」と呼ぶ(それに対して、日本統治時代かそれよりも前から台湾で生きてきた人たちは「本省人」と呼ぶ)。彼らが話す言葉は、出身地によって訛りがあるとしても、当然のことながら中国語だ。
 つまり外省人とは、台湾の日本統治時代を経験していない代わりに、大陸で日中戦争を経験している中国人たちということになる。そして、この時点で、同じ漢民族同士であっても、かつては日本人として戦争に加わらなければならなかった台湾本省人と、日本と戦った外省人という、「敵と味方」だったもの同士が、同じ島で顔を突き合わせて生きていかなければならないという、皮肉な構図が出来上がった。これが台湾という島を現在に至るまで複雑にした大きな要因の一つになっている。
「庇を貸して母屋を取られるとは、このことです。勝手にどんどん入り込んできて、結局は政府を立ててしまったんだから」
 本省人の中には、そう言って憤る人が今も少なくない。もとは同じ漢民族といっても、早い時代に大陸から台湾に渡り、幾世代も経てきた人たちは、少なからず家系図のどこかで原住民族や台湾支配に乗り出してきたオランダ、スペイン人などと交わってきた。さらに日本統治時代には日本の教育を受けて日本文化を身につけたこともあって、自分たちは台湾独自の民族となっているという気持ちが強いせいだ。彼らは自分たちのことを「台湾人」と呼ぶことを望むし、若い人たちは「タイワニーズ」と名乗ったりもする。
 一方の外省人たちにだって言い分はあるだろう。内戦を恐れ、共産党による支配を拒否した人々は、当初は蔣介石と国民党軍が巻き返しを図ることを願っていたに違いないし、政権を取り戻すことさえ出来れば、自分たちも遠くない将来、大陸に返り咲けるに違いないと夢見ていたはずだ。だが、その兆しは一向に見えないまま世界情勢は大きく変わり、年月ばかりが過ぎて、外省人たちはそのまま台湾での生活を余儀なくされた。
「日本と8年戦って、日本家屋に日本の歌」 映画『牯嶺街…』の始まりに近い部分で主人公の母親が中国語で呟くのは、そんな背景があってのことだ。その言葉だけで、彼らが外省人であると分かる仕組みになっている。背景が1960年前後ということは、主人公の少年も兄姉たちも、実は大陸の生まれで幼い頃に両親と共に海を渡ったということになる(末っ子だけ違う)。つまり、彼らはある意味で漂流してきた一家であり、その家は決して自分たちが望んで住んでいる空間ではないのだ。
 映画を観ながら、私は、もしも自分が引き揚げ者の家族だったら、この日本家屋のシーンをどんな風に受け取るだろうかと考えていた。そのことを、山間の金瓜石という町に来て、久しぶりに思い出した。
「そういえば確かに、こんな門構えの家だったかな」
 なるほど、と頷いて見せると、ガイドも得意げに頷いている。主人公の家は、両親に子ども五人という家族構成で、男の子二人は押入の上段下段をベッドとして使っており、玄関のすぐ脇には引戸式の手洗いがあった。実際には家の中のシーンはまた別のセットを使ったのかも知れないが、そんなことを思い出しながら、かつて炭鉱で働いていた日本人の住宅だった家の中を見て歩くのは、何か特別な気持ちのするものだった。もちろん私たちの目には特に目新しいものはない、ごく当たり前の日本の家なのだけれど。


映画『牯嶺街少年殺人事件』の撮影に使われたという、かつては鉱山技師の住宅だった日本家屋。映画では主人公・小四(シャオ・スー)の家となっていた。


家屋内部。日本人にはなじみのあるつくりだが、スリッパを履いて畳の上を歩くのに抵抗を感じる。

 

 今でこそ数を減らしているが、台湾の、ことに台北にあった日本家屋の多くには、着の身着のままで引き揚げなければならなかった日本人の様々な思いや無念さに加えて、そこで暮らすしかなかった寄る辺ない外省人たちの悲しみも染み込んでいたのかも知れないと、その時に初めて気づいた。どうしても古くからの台湾を探り、また日本統治時代の話を聞くことが多い旅の中では、「外省人」の存在は時として台湾本省人を脅かしてきた存在のように思えてしまうことが多かったが、彼らもまた台湾の重要な要素であることに変わりはない。
 1960年前後、台湾は1949年以来続いている戒厳令の真っ只中にあった。中華民国政府による国民への監視、密告、検閲、拷問などといった抑圧は熾烈を極めており、まるで覚えがなくても身柄を拘束されて、中には政治犯として処刑されるものも後を絶たなかった時代だ。映画では、そんな状況下で精神的に追い詰められていく外省人の悲哀も描かれている。決して「母屋を取」って呑気に暮らしているばかりではなかった。
「あ、閉められちゃってますね。台風が来るから全部、板を打ちつけました」
 金瓜石の細い道を歩くうち、「太子賓館」にたどり着いた。ここは『牯嶺街…』に登場する早熟でワルの転校生の家として撮影に使われたのだそうだ。言われてみれば、確かに記憶と重なる気もする。映画の中では、その悪ガキが日本家屋の庭先で親のライフルをおもちゃにしてぶっ放すシーンがあるが、これほどの山奥でなら、実際にここで撃ったとしても問題なかったかも知れない。
 ちなみに1922(大正11)年に建てられたこの賓館に泊まるはずだった皇太子とは、後の昭和天皇のことだ。故郷から遠く離れたこの土地で炭鉱開発に力を入れていた日本人にしてみれば、皇太子の行啓はさぞ誇らしく嬉しいことだっただろうが、どういう理由からか結局、皇太子はここへは立ち寄らなかった。当時、可能な限り贅を尽くして、日本庭園までしつらえた皇太子のための屋敷が後年、台湾映画のセットとして、しかも外省人が住む家となって使われることになろうとは、当時の誰が想像しただろう。それにしても、気軽に寄り道したつもりが、これほど『牯嶺街少年殺人事件』のことを思い出すことになろうとは思わなかった。


大正時代、皇太子の行啓のために建てられた「太子賓館」。だが結局、皇太子はやってこなかった。同じく『牯嶺街少年殺人事件』で使用されている。

 思い出しついでに、そういえば映画の中に登場する「牯嶺街」という町は、実際はどんな場所なのだろうかと、今度はそれが知りたくなった。映画では、日が暮れた後も店先に電球を吊した古本屋などが軒を連ねており、学生たちも数多く行き来している、どこか下町らしい情緒を感じさせる町だった。地図で調べてみたところ、台北中心地のほぼ南に位置しており、私がこれまでに何度となく訪れている二二八国家記念館のすぐ近くだということが分かった。少し西には台北植物園などがあり、もっと西に行けば淡水河沿いに台北でもっとも古くから開けていた艋舺(萬華)に行きつく場所だ。
 その夜のうちに台風は過ぎ去っていた。翌日は朝から晴れ渡り、例によって暑い一日になった。
「あんなところ行ったって、何もありませんよ」
 前日に続いてつきあってくれているガイドは、自分から映画のことを言い出したにも拘わらず、今ひとつ納得がいかないという顔をしていたが、それでも私たちを牯嶺街まで連れていってくれた。
 本当に、何ということもない台北の街だった。たまに古銭や切手を扱う古い店がある。中の一軒を覗いてみると、埃と排気ガスで薄汚れているガラス戸の向こうに常連らしい男性客と年老いた店主がいて、退屈しのぎのような顔つきで何か喋っていた。そのまま角まで行ったところで、白い建物が目につく。正面に「牯嶺街小劇場」と書かれていた。
 牯嶺街小劇場は、1906年の木造建築で日本統治時代は憲兵隊の分隊所だったらしい。その後は警察署だったこともあるということで、今でこそ外観全体が白く塗装されているが、正面には赤くて丸い照明灯がついているし、雰囲気はなるほどと思わせるものがある。中に入ってみるとちょうど上の階で実験的演劇を行っている様子だった。住む人も集う人も変わり、残っているのは街の名前と、この建物くらいということだろうか。


台北市内の牯嶺街にある牯嶺街小劇場。日本時代の面影を今も残す。

 今となっては実際に見ることのかなわない、日本統治時代の足跡を色濃く残す60年代の台北を『牯嶺街少年殺人事件』は見事に再現してくれていた。かつて日本人がいたことには何の感慨も抱かない代わりに、親の不安定さを敏感に感じながら自分たちの世界を築こうとしている外省人の少年少女たちが、一方では時代の波を受けてアメリカン・ポップスにも夢中になり、もう一方では自分たちが暮らす家の天井裏から見つけた日本刀をおもちゃにしたり、日本人女性の写真に見入ったりする。それが、この島を立ち去った後の日本人が決して垣間見ることの出来なかった、あの時代の台北、新たにやってきた外省人の世界だったのだろう。


牯嶺街は、かつては古本屋街だったというが、今その面影を追うのは難しい。

 

協力◎一般社団法人日本台湾文化経済交流機構 ◎プロジェクト「まごころ日本」
©Project Magokoro Nippon  ※日本台湾文化経済交流機構は日本統治時代の歴史建造物等の保存及び伝承、台湾と日本の良質な文物を相互に伝える活動を行っています。

著者情報

乃南アサ(のなみ・あさ)

1960年東京都生まれ。早稲田大学社会科学部中退後、広告代理店勤務を経て、1988年『幸福な朝食』が第一回日本推理サスペンス大賞の優秀作に選ばれ、作家デビュー。1996年『凍える牙』で直木賞を、2011年『地のはてから』で中央公論文芸賞を受賞。2016年に『水曜日の凱歌』で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞した。他の作品に『花盗人』『団欒』『いつか陽のあたる場所で』『しゃぼん玉』『六月の雪』『美麗島紀行』『ビジュアル年表 台湾統治五十年』などがある。

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