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Nonfiction

読み物

美麗島プリズム紀行 乃南アサ

第2回 台湾最南端で台風に遭う

更新日:2018/10/17

 台風の進路を示す予報円が、数日後には台湾南部をかすめて通る可能性があると告げている。
「大丈夫。逸れていきますよ」
 台北を発つとき、一緒に旅する老陳さんこと陳旭慶さんは、ごく軽い調子でそう言った。陳先輩こと陳永旻さんも頷いている。もともと自分が「晴れ女」であると根拠のない自信を持っている私は、どこへ行くにもまず傘を持たないくらいだから、「そうですよね」くらいで済ませたと思う。
 そうして私たちは陳先輩の車に乗り込んで台北を発った。今回は途中、台中と台南、高雄に立ち寄り、それぞれの土地に残っている日本統治時代の建築物などを見ながら、最終的に台湾最南端の鵝鑾鼻を目指すという3泊4日の旅を計画している。鵝鑾鼻の南に広がるのはバシー海峡。地図でしか見たことのない海を、一度この目で見てみたい、というのが最終目的だった。
 サツマイモにたとえられる形の台湾は、九州よりも少し狭いくらいの面積がある。島を南北に貫く山脈が通っているため全体に平地は少なく、台北を始めとして台中、台南、高雄といった主要都市はすべて島の西側に集中している。それらの都市を結ぶように鉄道が通り、高速道路網が充実している。梅の花を模した形の中に番号が振られている国道の高速道路の中で、今回は「1」の中山高速道路をひたすら南下することになる。
「何か、日本を走ってるみたいな気分」
 毎度のことながら、車での移動となると必ず同じ感想が洩れる。漢字の国ということもあるのだろうが、ことに高速道路を走っていると標識だけでなく側壁から分離帯まで、日本そっくりなのだ。無論、右側通行と左側通行との違いはあるのだが、よく言えば馴染み深く、逆に言えば申し訳ないほど新鮮味に欠ける。それくらい、よく似ている。
 それでも、やはり違う国を走っているのだと感じるのは、道路の両側に見える風景の中に、ぽつりぽつりと中華風の寺院や廟の屋根が見えるからだ。どんな遠くからでもそれと分かる、反り返った屋根に龍が舞い、他にも様々な飾りのなされている色鮮やかな建物が、ここは日本ではないと感じさせる。
 カーステレオから流れてくるのは陳先輩の好みらしい、ポップス調に編曲されている日本の演歌。サックスが好きで友人とバンドを組んでいるというから、てっきりジャズでも好みなのかと思ったら、陳先輩は普段こういう曲を演奏するのだろうかと、ちょっとおかしくなった。
 ポップス調演歌に、こちらもつい調子をとりながら進むうち、車は台中に入った。
「台中には日本統治時代、大きな眼科医院があったんです。その建物が今はとても人気のあるお菓子屋さんになってるんだよ」
 まず案内されたのがそのスイーツ店だ。煉瓦造りの外壁はいかにも古く、入口前の床に敷き詰められた石には真ちゅう製の文字が「宮原眼科」と埋め込まれている。建物を取り巻く「亭仔脚」と呼ぶベランダ式通路も趣があるものだ。そこに、長蛇の列が出来ていた。やっと入った店内は天井が高く書店風のディスプレイがされていて、スマホを構えて記念写真を撮る人たちで溢れかえっている。レトロな感じがいいのだろう、ところでお菓子の味はどうなのだろうかと思ったが、老陳さんたちは甘いものには興味がないらしく、そそくさと台中公園に向かうことになった。


日本統治時代は「宮原眼科」という眼科医院だった台中のスイーツ店。往事の外観を残しつつ中はすっかりリノベーションしている。人気店らしく店の前には行列が出来ていた。

 

「あの東屋は日本統治時代から変わらないものです。私が中学生の頃は、あの向こう側に防空壕が掘られていて、空襲警報が鳴ったら皆でそこに逃げ込んだんだ」
「台中にも空襲があったんですか」
「ありましたよ。機銃掃射でね、ばばばば、とやられることもあったし」
 現在80代の老陳さんは台中第一中学校出身だった。中学時代に終戦を迎えたというから、この台中で過ごしていた途中で教育が変わり、教師が変わり、母国語として使ってきた言葉さえ変わったということになる。
「駅もね、その頃と同じものです。戦争中は自由に汽車に乗れないから、下宿先から自宅に帰れるのは、せいぜい1カ月に1回くらいだ。それも夜、真っ暗な中を走る列車に乗るんだよ。昼間は敵機に狙われるから」
 カンカン照りの陽射しの下で、老陳さんは淡々と、そんな話もしてくれた。
 翌日、台南に移動した。今度は陸軍の官舎跡や保存を目指している古い日本家屋などの他、もとの台南第二中学校に案内された。現在は台南第一高級中学校となり、日本統治時代に建てられた校舎がそのまま使われている。煉瓦造りの建物の壁面には、機銃掃射の弾痕がいくつも残っていた。台湾各地を歩いていて、こういう日本統治時代の、しかも戦争の傷跡が残るものを見るたびに、何とも言えない気持ちになる。どうしても「巻き添えを食わせた」という思いがこみ上げてしまう。案内する方にはそんなつもりはないのだろうが、こちらは感傷的になり、胸が痛む。かつて50年間だけ日本が支配する植民地だったことを、改めて感じさせられる。


台南第一高級中学校の校舎に残る戦争中、米軍機から受けた機銃掃射の痕。日本統治時代のまま遺る建物には、このような生々しい痕が他にもたくさん刻まれている。

 

 だが、それにしても暑かった。朝から晩まで、抜けるような青空が広がりギラギラとした太陽が照りつけてくる。台湾は島を南下するにつれて農村地帯が増えていき、車窓からでも養殖池やパイナップル畑、またヤシの木風のものが見られるようになるが、中でも檳榔樹(びんろうじゅ)の樹影が目立つようになってきた。
 細く真っ直ぐな幹がすっと伸びて、天辺にだけボサボサ頭のように葉が広がっている、それが檳榔樹だ。他の畑に混在しているところもあれば山肌全体を覆っていたりもする。
「こんなに檳榔樹が多いということは、まだまだ需要があるっていうことなんですね」
 台湾では各地で、街道沿いなどに派手なネオンと「檳榔」の看板をよく見かける。昔はチャイナドレスの若い女性が屋台で売っていたという話だが、とにかく目立つようにしているらしい。檳榔樹の種子を少量の石灰と共に葉っぱでくるんだものを売っているのだ。これをまるごと口にふくんでしばらく嚙んでいるとフワッとして軽い興奮状態になり、眠気も覚めるのだという。長距離トラックの運転手などが使用することが多いために街道沿いに店が目立つということだが、檳榔を嚙んでいると唾液が赤くなるため道路に吐き出せば道が汚れるし、過剰摂取は身体に害をもたらすらしい。それでも依存性があるために、なかなかやめられないのだそうだ。
「儲かるから、檳榔樹を植える人は多いんですが、檳榔の木はあまり根が張らないからね、山がこればかりになると、災害が起きやすくなるんだよ」
 敬虔なクリスチャンである老陳さんも、また陳先輩も、お酒も煙草も一切やらない人たちだ。まして檳榔などとんでもないと、その顔が語っていた。


檳榔の木。天辺に茂る葉の下に花が咲く。この花は食用になり、果実のように有害ではない。クセがなくシャキシャキした食感で、筆者の好物のひとつ。

 翌日、さらに南下して高雄に着いた辺りから、天気が怪しくなってきた。前日までの青空が嘘のように雲に覆われて、その流れも速い。風の香りも違うようだ。それでも私たちは、まだ高をくくっていた。古い駅舎を見たり、歴史博物館に立ち寄ってたっぷりと日本統治時代の建物を眺めて過ごしていた。
「早く行った方がいいよ」
 ところが、途中で陳先輩が言い始めた。同時に、パラパラッと雨が来た。それも大粒だ。あれ、と思うと、すぐに止む。灰色の雲が重なる向こうには青空も見えるのだが、少しすると生暖かい風が吹き始めて、またパラパラッと来る。明らかに台風の予兆だ。
「高雄に泊まるのはやめにして、早く鵝鑾鼻に着いた方がいいかも知れないね」
 老陳さんのひと言で、私たちはすぐに車に乗り込んだ。そこから先は一般道の旅になる。これまでよりもずっと時間がかかるだろう。あ、陽が射してきたから大丈夫なんじゃないと思うと、フロントガラスに雨粒が当たる。その繰り返しになってきた。
 いくつかの小さな町を通るうち、やがて店先にビーチボールや浮き輪が売られているのを見かけるようになる。ああ、海が近いのだなと思うようになった頃には、雨は断続的に降り始めていた。ザアッ、ザアッと強い勢いで叩きつけてきて、ワイパーが間に合わないくらいだ。かと思えばぱたりと止んで薄陽が射したりもするのだが、その頃にはもう私たちは一喜一憂しなくなっていた。
 雨でかすむ景色の中に、やがて「恒春」という標示が見え始める。台湾で空前のヒット作となった映画『海角七号 君想う、国境の南』の舞台になった街だ。日本統治時代と現代とを交錯させながら、台湾人と日本人の間に生まれた恋を描いている。映画の中でも激しい雨に見舞われる浜辺のシーンがあった。少しくらい映画の世界に浸ってみたいと思ったけれど、陳先輩は無言で街の中を通過する。辺りは薄暗くなり始めていた。
 夕暮れどきの景色はどんどん激しくなる雨に煙って、どこへ向かおうとしているのかも分からないくらいだ。時折、強い横風が吹きつけて車体が大きく揺すられた。
「ここから先へ行くのは明日にしましょう」
 結局その日は鵝鑾鼻にたどり着くことなく日暮れを迎えて、私たちは手前の小さな集落で1泊することになった。1階が海鮮料理の食堂になっている民宿で、ずぶ濡れになりながら車から荷物を下ろし、まずは食堂で夕食をとることにする。こんな天気になったせいか他に客の姿はなく、店も早くおしまいにするつもりなのだろう、働いている人たちも皆でまかない料理を食べ始めていた。
 その人たちを見ていて初めて気がついた。いわゆる漢民族系の台湾人とは顔立ちがまるで違っている。肌も少し浅黒くて、エキゾチックな雰囲気が強い。そういえば、ここまで来る途中でも、道路沿いに原住民族らしい像が立っていたり、原住民族の持つ文様が記されている看板などが雨に煙っていた。
「この辺りは原住民族の人たちの村なんでしょうか」
「多いですね、南や東の方はね」
 薄いビニールクロスの掛けられた据わりの悪いテーブルで、私たちは何となく落ち着かない夕食を搔き込み、早々と客室へ上がることにした。互いに短い挨拶を交わして別々に部屋に入ると、こんな天候でも近くに夜市でもあるのか、余興の音楽らしいものが馬鹿陽気に流れていることに気づいたが、途中でプツリと聞こえなくなった。あとは、雨と風の音だけだ。
 客室にはラジオはあったがテレビがなかった。言葉が分からないものには情報がまるでないのと同じだ。台風はどうなったのだろう。まさか明日までこのまま嵐が続くなんていうことはないと思うが。いや、思いたい。それにしても、ここは鵝鑾鼻からどれくらいの距離なのだろうか。
 飲み物が何もなかったから、雨に叩かれながら一度近くのコンビニに行き、そういえば小さなフロントロビーにテレビがあったのではないかと思いついた。だが、古い応接セットがひと組置いてあるだけのロビーにはテレビなど見当たらないどころか、もう電気も消されていて人の姿もない。よく見ると、その奥の部屋の前に十数足のスニーカーやサンダルなどが脱ぎ散らかされていた。
 こんな夜に、これだけ大勢の人が集まって、何をしているんだろう。
 その時は、私はまだ多くの台湾の家にいわゆる「三和土(たたき)」がないことを知らなかった。だからほとんどの家では、玄関扉の外で靴を脱いで家に入るのだそうだ。さらに下駄箱もないという。そこで集合住宅などの場合は、共用の階段の端に家族中の靴を並べておいたりすると、後から教えられた。つまり、べつに何の集会をしているわけでもなかったのだが、知らないものから見ると台風の夜に人が集まって、しかも静まりかえっているように見えて、何とも言えず不審に思ってしまった。
 結局なすすべなく、ただ長い夜を過ごすしかなかった。雨はもはや途切れることなく激しく叩きつけているし、風が鳴る度に建物ごと揺れるように感じる。ウトウトしては目が覚めて、起き上がって窓の外を眺めてから、また横になる。とにかく明るくなるまでに通過してくれることを祈るばかりだった。
 だが朝になっても、いつまでたっても明るくならない。窓から見える海は文字通り荒れ狂っているし、雨は止むどころか激しくなる一方だ。外を行き来する車もなく、黒い犬が1匹、とぼとぼと歩いて行くのが見えた。


鵝鑾鼻のすぐ近くまで行き、台風で足止めを食った朝。外を動いているのは黒い台湾犬だけだった。猛烈な風雨の中でも平気で歩いているのは台風慣れしているせいか。

「今日は、鵝鑾鼻まで行くのは無理だね。それより早く戻らないと道路が封鎖されるかも知れません」
 朝食の時に老陳さんが言った。この台風はずい分と大きくて、今日は台湾全土の学校や会社も休みになったのだそうだ。
「会社も? そんな決まりがあるんですか」
 台湾には「颱風假」という政府公認の台風休みがあるのだと、これも初めて教えられた。行政区ごとに出されて、すべての学校や会社が休みになるのだという。政府が「危険だから外に出るな」と言っているということだ。それは大変、鵝鑾鼻なんかに行っている場合ではないと私も諦めた。
 帰り道、景色は一変していた。一晩のうちに、あちらこちらで土砂崩れが発生して、山の方から滝のような水が流れ出している箇所がいくつもあり、車線の一部が使えなくなったりしている。檳榔樹の話を、ふと思い出した。ちょろちょろと流れる程度だった川はどれも土手まで広がる赤い濁流となって、流木などが橋桁に引っかかっていた。幸い、陳先輩の車は四駆で車高も高かったから、まるでウォータースライダーのように水たまりの中を通過出来たが、立ち往生している普通乗用車をいくつも見た。
「これだけ道路がやられているのは、今度の台風はずい分とひどい方だね」
 さすがの老陳さんも心配そうな顔になっている。滝のように雨水が流れ落ちる窓越しに、私は日本とは異なる山影を眺めていた。日本統治時代、ここで暮らしていた日本人たちは、こんな嵐をどう感じただろう。山影も田畑の様子も、一見すれば内地と似通って見えるのに、たとえば檳榔樹の姿が、やはりここは遠く離れた土地だと感じさせる。今回はたどり着くことが出来なかった鵝鑾鼻灯台を守っていた日本人たちは、荒れる海を眺めながら、何を思っただろうか。
 車はようやく高速道路に乗った。すると不思議なほど雨がしずまって、空も明るくなってきた。
「行っちゃった?」
「行っちゃった、かな」
 昼近くなって台中まで戻ってくる頃には、小雨の中を出前のスクーターが走り回るようになっていた。風も止んで、すっかり穏やかな空気が広がっている。何だ、もうちょっと待てば鵝鑾鼻まで行かれたんじゃないの、と未練がましく思ってしまう。
 結局、予定外に早く台北まで戻ってきた。そして、ホテルでテレビのニュースを見て初めて、被害の大きさに驚いた。台湾各地で土砂崩れや道路の冠水だけでなく、河川が氾濫し、橋が流されるなどの被害が起きており、犠牲者まで出ていたのだ。無事で帰れただけでもありがたかった。
 せっかくだから「颱風假」の街を見てみようと、またホテルを出る。すると、道路には街路樹の枝がむしり取られたように折れて散らばっており、人影もほとんどない。市場まで行ってみると、普段は大勢の買い物客で賑わっているはずなのに閑散として、店の人たちも暇を持て余している様子だった。
「なるほど、これが台湾の台風」
 結局、今回は台湾の台風を経験する旅になってしまった。


「颱風假」で開店休業状態だった市場には品物が溢れていた。果物、魚、惣菜類などに交ざって宙づり状態の鴨肉も、何とも暇そう。

 

協力◎一般社団法人日本台湾文化経済交流機構 ◎プロジェクト「まごころ日本」
©Project Magokoro Nippon  ※日本台湾文化経済交流機構は日本統治時代の歴史建造物等の保存及び伝承、台湾と日本の良質な文物を相互に伝える活動を行っています。

著者情報

乃南アサ(のなみ・あさ)

1960年東京都生まれ。早稲田大学社会科学部中退後、広告代理店勤務を経て、1988年『幸福な朝食』が第一回日本推理サスペンス大賞の優秀作に選ばれ、作家デビュー。1996年『凍える牙』で直木賞を、2011年『地のはてから』で中央公論文芸賞を受賞。2016年に『水曜日の凱歌』で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞した。他の作品に『花盗人』『団欒』『いつか陽のあたる場所で』『しゃぼん玉』『六月の雪』『美麗島紀行』『ビジュアル年表 台湾統治五十年』などがある。

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