〈 翻訳者インタビュー 〉

『わが人生。名優マイケル・ケインによる最上の人生指南書』

マイケル・ケイン(著)大田黒奉之(翻訳)

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大田黒 奉之さん

マイケル・ケインによる自伝的エッセイ『わが人生。名優マイケル・ケインによる最上の人生指南書』が注目を集めている。イギリスが生んだ演劇界の重鎮であり、ハリウッドでも活躍した世界的映画スターであり、1960年代から89歳の現在に至るまでエンタテインメントの最前線で活躍している人物の自伝なのだからそれも当然のこと。そしてもうひとつ、注目すべき点がある。日本語訳を担当したのが、大田黒奉之氏ということだ。
洋楽を愛して止まない大田黒氏は、ビートルズをはじめ数多くのミュージシャンに関する本を翻訳。近年はナイキの創始者フィル・ナイトの自伝『SHOE DOG(シュードッグ)靴にすべてを。』の翻訳も担当した。そして今回、演劇というフィールドで活躍する人物の著作に、初めて挑戦したのだ。書き手に憑依したかのような、血の通った翻訳で知られる大田黒氏は、マイケル・ケインをどのように体感し、その言葉をどのように日本語に染め直して、私たちに伝えてくれたのだろう。

取材・文/岡本麻佑 撮影/石井義康

──336ページ。分厚い本ですが、スムーズに読み進めることができました。翻訳にはなにか秘訣があるのでしょうか?

 あの、リズム、なんですね。文体のリズム、グルーヴをそのまま生かして翻訳するよう心がけました。彼の文章のリズムを、そのまま日本語のリズムに置き換える、といいますか。著者の意図を伝えながら、読者が読みやすいリズムを日本語に反映させるように心がけています。

──大田黒さんならではの翻訳センスですね。もともと洋楽を愛するあまり、欧米のミュージシャンの伝記などを翻訳することからこのお仕事を始められたと伺っています。ベースになるのは、音楽的な感覚、とりわけリズムやグルーヴ感、というわけですね。

 そうだと思います。同じメロディをずっと聴いていると、どんなに素晴らしいメロディでも人間は飽きるんです。でもリズムは、同じリズムが続いても飽きないんですよ、自分に合うリズムなら。それと同じで、会話や文章の相性も、根っこにあるのはリズムではないかという気がしています。そのリズムを摑んだうえで、わかりやすい日本語に変換していくのが私の仕事です。村上春樹氏も同じようなことを言っていたかと……。もちろん恐れ多くて同じレベルで語れるわけではありませんが(笑)。
 あと、大事にしていることがあります。私が翻訳の技術を学ぶために勉強を始めたころ、添削してくれたひとのアドバイスに、こう書かれていたんです。「著者が日本人だったらどのように書くか、それをイメージして訳しなさい」と。何十年も前に教えられた言葉ですし、翻訳者にとっては基本中の基本なのかもしれませんが、いまだに大事にしている金言です。

──マイケル・ケインの文章は、どんなリズムだったのでしょう?

 けっしてリズミカルではないですね(笑)。どちらかというと、ロックじゃなくてジャズに近い。スイングしているんです。本質的なことを言いながら余白のような「粋」があって、どこか面白がっている余裕もある。ほどよく揺られているから、心地良いんです。その感覚が読者に伝わるといいのですが。

──彼はイギリス演劇界のみならずハリウッドでも活躍する重鎮で、レジェンドのような存在です。いままで多くのミュージシャン関連の書籍を翻訳されてきましたが、音楽業界と演劇の世界、違いは感じましたか?

 やっぱりマイケル・ケインのほうがきちんと生きていると思いました(笑)。作品のなかに何度も出てくるんですが、〝地に足が着いた生きかた〟をしていると思います。
 私が音楽を好きになったきっかけはビートルズなのですが、ビートルズはまるで大河ドラマのように、地方都市の若者がバンドを組んで成功して、いつのまにかアートに走って、最後衰退していく、完成した一代記なんです。一方ローリング・ストーンズは生涯悪ガキで、成長しない(笑)。デヴィッド・ボウイは異次元の存在で、ロックにインテリジェンスを取り込んでトータルアートとして完成させた。それぞれかなりアウトサイダーというか、ロックの世界の住人はコンプレックスが強くて負け犬根性丸出しで、その挙げ句にシャウトして拳を振り上げている、というのが私の個人的見解なんですが(笑)、それに比べたらマイケルのほうがずっとふつうに堅実に、王道の人生を歩んでいる。逆にそれが新鮮でした。

──現在89歳。1960年代から60余年にわたる活躍の背景には、きら星のごとく輝く有名人との交流も描かれています。さまざまな時代背景もありました。

 実はそこが、いちばん苦労した点です。有名な映画監督やハリウッド・スターとの印象的な会話が、本作の読みどころのひとつだと思うのですが、彼らひとりひとりのリズム感をどう書き分けるか、気を配りました。クリストファー・ノーランの誠実な口調とか、ベティ・デイヴィスの謎めいたささやきとか。ちょっとした会話でも、マイケルとそのひととの関係性が読み取れるわけですから。
 時代背景に関しては、彼のデビューがちょうどロックが成長した時代、ワーキングクラスからの成り上がり的ストーリーが実現した時代で、ビートルズの活動時期などともかぶるので、入りやすかったです。

──マイケルのひととなりについては、どのような印象ですか?

 実は、訳に取りかかる前は、大御所ですから、もっと偉そうなひとなのかと思っていました。ところが読み込んでみると話の内容は堅実ですし、根っこは真面目なひとなのだと思います。若いころの失敗談とか有名人との交流を自慢するようなところもありますが、それよりも彼自身が経験から得た生きるうえでの考えかたがとてもストイックで、好感が持てました。彼のなかでは、仕事の基本をコツコツと積み重ねること、日々を大切に生きることが、なによりも大事なんです。

──俳優という仕事への取り組みかたが、ていねいに書かれていますね。

 大物俳優だというのに、作品を選ばずにどんな役でも無節操に演じてきた、と言われていますが、それもまた、彼なりのマーケティングだったのではないかと(笑)。それについては文中にいろいろ理由が述べられていますが、いっそカッコいいと私は思いました。B級映画だろうが悪役だろうが、スケジュールとギャラが折り合えば、NOとは言わない。そしていつも全力を尽くし、万全の態勢で仕事に臨むんです。しかも彼はパワハラとかジェンダー差別に対する厳しい姿勢も示している。けっして昔気質なだけではない、柔軟な感性の持ち主だと思います。そこがジャズ、なのかもしれません。

──この本から、大田黒さんご自身が学んだことはありますか?

 やはり、物事をポジティブに見ること、ですね。ひとつの出来事があったとして、一面的に捉えるのではなく、いろいろな見かたをして、自分の糧にしていく。たとえ失敗したとしても、そこから得られる教訓があるのなら、落ち込む必要はない。成功へのステップのひとつなんですから。
 そしてもうひとつは、仕事の準備です。セリフを完璧に頭に入れて、何千回とくり返して練習している。当たり前のことかもしれませんが、実に地味な、基本中の基本を彼は徹底して守っている。ベテランになっても、です。そこにいちばん共感しました。
 私は伝記物を翻訳することが多いし、読むのも好きなのですが、それはどちらかというと、あら探しに近いんです。どんなに立派なひとでも欠点があって、私自身にも近いところがある。それが楽しみなんです。マイケル・ケインの場合は、その地味なことをコツコツくり返すところが、私にも真似できる共通項でした。欲をいえば、もっと自分のダメなところ、弱点をさらけ出して欲しかったのですが(笑)、仕事でここまで実績を残して、家庭もちゃんとしているのは奇跡に近いと思うんです。どこかでちょっと、破たんした姿も見たかったのですが、それはないものねだりかもしれません。

──最後に読者に向けて、この本を紹介して下さい。

 若いかたたちにとってはとても有益なビジネス書であり、映画ファンにとっては名優が語る奥の深い映画論であり、人生経験豊かなかたたちが心から共感してくれる伝記でもある。多面的な、実に面白い本だと思います。しかも読んでいて、心が晴れる本です。人生、ていねいに、まっとうに生きていればなんとかなる、と。私自身、これからもマイケルを見習って音楽業界にこだわることなく、いただく仕事に誠実に応えていこうと思いました(笑)。

撮影・石井義康

翻訳者プロフィール

大田黒 奉之 (おおたぐろ・ともゆき)

京都大学法学部卒業。洋楽好きなことから、ミュージシャンの伝記などの翻訳でキャリアをスタート。主な訳書に『ロック・コネクション─写真と系図でたどるロックの完全ガイド』『ジョージ・ハリスン・コンプリート・ワークス』『デヴィッド・ボウイ・コンプリート・ワークス』『ザ・クラッシュ・コンプリート・ワークス』『イーグルス・コンプリート・ワークス』(以上、ティー・オーエンタテインメント)、『ミック・ジャガーの成功哲学─セックス、ビジネス&ロックンロール』(スペースシャワーネットワーク)『SHOE DOG(シュードッグ)靴にすべてを。』『サードドア──精神的資産のふやし方』(以上、東洋経済新報社)など。

『わが人生。名優マイケル・ケインによる最上の人生指南書』

マイケル・ケイン(著)大田黒奉之(翻訳)

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