謹んで令和元年台風災害のお見舞いを申し上げます。
度重なる台風により被災された皆様に、心からお見舞い申し上げます。
また、被災地等におきまして、避難生活や復興の支援など様々な活動に全力を尽くしていらっしゃる方々に、深く敬意と感謝の意を表しますとともに、
一日も早く復旧がなされますよう心よりお祈り申し上げます。
(株)集英社
既刊情報
ジャンル:単行本 随筆 ノンフィクション 他
日本の古典に学びしなやかに生きる
長く読み継がれてきた日本の古典は生き方アドバイスの宝庫です!
- 判型 : 四六判
- 頁数 : 256ページ
- ISBN : 978-4-08-781581-8
- 価格 : 本体1,400円+税
- 発売日 : 2015年10月26日
今も人気のある古典、『方丈記』『徒然草』『努力論』『養生訓』の4冊を作家加賀乙彦が独自の視点で読み解きます。歴史を超えて読み継がれてきた日本の古典には、現代にも通じる生き方のエッセンスが随所に散りばめられています。それぞれ、ポイントとなる文章を原文より抽出、著者が現代文にかみ砕きながら解説していきます。また、一目で要旨がわかるように短い「まとめ」も掲載。「古文」が苦手な人も、美しい原文を味わいながら内容がすぐ読み取れる構成になっています。『方丈記』からは「この世での住まい方」が、『徒然草』からは「今、生きていることの大切さ」が、『努力論』からは「運気の上げ方」が、そして『養生訓』からは「長生きする術」が、手に取るようにわかります!
日本の古典には、参考にしたい生き方エッセンスが満載!
『方丈記』『徒然草』『努力論』『養生訓』の4冊には現代を「しなやかに生きる」ためアドバイスが散りばめられています!『方丈記』
財宝を持っていても幸福にはなれない。よけいなものを捨てればかえって心は豊かになる。
『徒然草』
大事なことを先延ばしにしてはならない。「ただ今」を大切にして次はないと思え。
『努力論』
人と分かち合うほど福の量は大きくなり、人にも愛され運を上げることもできる。
『養生訓』
長生きをするためには何事もほどほどに。長生きをしなければ人生の楽しみも味わうことができない。
古典を読む楽しさを伝えたい
たくさんの古典を読む中で、鎌倉時代から室町時代のものに特に興味を持ちました。一時は、室町初期の世阿弥に強く惹きつけられ、読むだけでは飽き足らず、自分でも新作の能をいくつか創作してしまったほどです。その中のひとつ『高山右近』という作品は、日本全国7か所で何度も上演し、パリでも3日間上演しましたね。
長編小説には、スタンダールの言う、非常に早いスピードで読める文体が必要です。そうした文体を何とか自分のものにしようと切磋琢磨してきた私の感性と、鎌倉時代の文体が響き合ったのが、ちょうど60歳くらいの頃でしょうか。それ以降、簡潔ながらも芯の強い、表現力のある文章を自分なりに構築してきたつもりです。
私たちは普段、無意識に日本的な考え方でものを考えていますが、古典を読んでいると、ふいにそれらがはっきりと見えてくることがあります。私たちの根底にある「ものの考え方」がつかめるのです。古典を読むことで、おのれを発見できる。古典文学には何度読んでも新しい発見があり、そこに描かれる言葉は時代を超えて人間の心に響く普遍性を持っていると思いますね。
古典は現代とは少し違う言葉で書かれていますから、すらすらとは読めないかもしれません。けれども「難しい」と敬遠してしまうのはもったいない。そこで、この素晴らしい古典というものを私なりに読み解いて紹介し、皆さんが古典に興味を持つきっかけになればと考え、今回『日本の古典に学びしなやかに生きる』を上梓することになったわけです。
有名な一節に、飢餓のため道端で人がばたばたと死んでゆく中、母親が死んだのも知らずに乳房にしゃぶりつく赤ん坊の姿が描かれています。飢餓のような不幸の中では、「思いの強い者」から死んでいきます。赤ん坊が誰かに救われて生き延びることに一縷の望みをかけて、まず年寄りが食べることを諦め、次に父親が赤ん坊のために母親を生かそうとし、最後に母親がわが身をすべて赤ん坊に捧げて力尽きて死んでいくのです。そうした凄惨な状況が、簡潔な文体で淡々と、しかしながらその光景が眼前に迫り、死臭さえ漂ってきそうな迫真の表現力で描かれています。
著者の鴨長明は平安時代末期から鎌倉時代を生きた歌人であり、随筆家です。長明自身、いくつもの災害を経験し、『方丈記』で世の中の不幸や人間の苦しみを表現しました。災いを人間に対する挑戦のように受け取り、そうした状況下で人はいかに生きていくべきかを思考し、「無常」という世界観にたどり着きます。
見栄を張ろうと思うから着飾り、出世したいと思うからとおべんちゃらを言う。そうやって富や美を得たところで、人間はみな等しく死んでになる。誰でも同じ道をたどるのだから、あくせくするのは愚かしい。人間が生きるためには、質素な家とわずかな衣服と食糧があればよく、目の前に展開する四季折々の自然こそが仏のつくりたもうたこの世の美しさであり、その美しさを自分のものにして生きるのが一番の幸せなのだ、と考えたのです。
そして、長明自ら都会生活を離れ、簡素な庵に暮らして隠者生活を送りながら、人に迷惑をかけずに、自然と合体して生きました。『方丈記』でも、素晴らしい描写力で自然の美しさを称えています。私はここに「日本的なもの」を見出すのです。
鎌倉後期になると、吉田兼好の『徒然草』が登場します。『徒然草』は「つれづれなるまま」に書かれていて、順序だった記述ではありません。ですからまとまりがないように見えますが、実は一本の線が通っていて、自己の主張を明確に述べている点を、私たちは読み取る必要があります。
兼好の「この世のものは常に変わっていく、永遠のものなど何ひとつない」という主張は、長明とよく似ています。しかし、何もかもが無常の波に呑み込まれていった『方丈記』に対して、『徒然草』の兼好は、繰り返し「大事」について述べています。「命は永遠ではない。だから小事は捨てて、真っ先に大事に励め」というわけです。
兼好にとっての大事とは仏教修行ですが、その姿勢は、私たちが生きる上でも大いに役立ちます。全てが無常では、生きるのが空しくなってしまいます。しかし、全ては無常だからこそ、今このときを大切に生きる。人生が無常であることの覚悟の上に、この一瞬一瞬に力を尽くして生きようという思想が、『徒然草』のあちらこちらに読み取れます。
現代に生きる私たちも、「そのうちに時間ができたらあれをやろう」「定年退職したらこれをやろう」などと、やりたいことを先延ばしにしていないでしょうか。兼好は、これは大間違いだといいます。無常、つまり死は常に迫っています。そう思えば、一番大事なことを先延ばしにしているヒマはありません。明日死ぬとしたら、今日何をすれば後悔がないのかを、常に「心にひしとかけて」生きるべきなのです。さらには、「今を生きているということこそが万金に値する」ことであり、「その喜びを存分に味わわずして何の喜びがあるのか」と、説くのです。
江戸時代になると士農工商という身分差別ができました。これが明治時代になると、士農工商もなくなり、立身出世主義が誕生します。この頃から「努力」という言葉がよく使われるようになり、幸田露伴の『努力論』が上梓されます。
人間の思想というものが注目され、この書にも、努力して励めば、出世をして故郷に錦を飾ることができる。そのためにはこう生きたらいいのだということが書かれています。露伴自身、貧しい生まれの中で文学を志し、苦労を重ねて成功した人でした。
人間は全て平等であり、努力して自分の力で世の中を乗り切っていくのだという価値観は、現代に通じる新しいものであり、それなりに簡潔で正しいと思います。欧米の思想に影響を受け、日本人の考え方が大きく変わった時代に書かれたものです。
ちょっと話がそれますが、明治時代の志は、私はいいと思うんです。いいと思うのだけれど、やりすぎると軍国主義になってしまう。日清戦争も日露戦争も、日本人の努力という意味では素晴らしいものがあったと思うのだけれど、それをやりすぎると、日韓併合というような植民地主義になっていく。それが第一次世界大戦でさらにひどくなり、第二次世界大戦で頂点に達してあの悲劇を生むわけですね。その点は私は合致しないのですが、人間が全て平等であり、貧しくても努力によって成功できるという志向性は、人間の在り方としてよかったと思う。だから『努力論』を取り上げました。
最後の『養生訓』を書いた貝原益軒は、江戸時代中期の儒学者です。益軒は、当時としては驚異的な85歳という寿命をまっとうしました。『養生訓』は、その84歳のときの著作です。長生きをした自分自身の経験に基づいた健康法が書かれており、非常に具体的で実践的です。性生活は週に何回が適切かとか、寝返りは何回うてなどという記述もあって、面白い。現代医学からみると、心臓を上にして寝るか下にして寝るかで血流が大きく異なりますが、そういうことを益軒はちゃんと感じ取っていたのだと思います。
この書は、文学的香気というよりも、皆さんの健康維持のヒントになるだろうと思い取り上げました。特に男性の場合、50歳になったらこうしろ、60歳になったらどうしろと示唆に富んでおり、長生き時代を生きる私たちに大いに参考になるものです。
それと、古典はぜひ声に出して読んでみてください。最初は読みづらいかもしれませんが、人間、何度も読むと、自然に口から出るようになります。演奏家が何百回も練習した末に、楽譜を見ずに演奏するのと一緒で、脳ではなく筋肉の作用で覚えるのです。そうして、その日本語の美しさ、抑揚、表現力などを存分に味わっていただきたいと思います。古典への肩慣らしと思って、本書を楽しんでいただければうれしいですね。