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ジャンル:単行本 随筆 ノンフィクション 他

定年バックパッカー読本

定年バックパッカー読本 団塊は、世界をめざす!


著者 : 大嶋 まさひろ

  • 判型 : A5判
  • 頁数 : 288ページ
  • ISBN : 978-4-08-781370-8
  • 価格 : 本体1,600円+税
  • 発売日 : 2007年08月24日

そうだ、ボクらには『旅』があるではないか!!
団塊の世代が続々、定年を迎える。気力、体力にまだまだ余裕がある上に、やっと自分の自由な時間が手に入るのだ。田舎暮し、豪華船の旅をするには、まだまだ若い! そうだ、バックパッキングがある!!

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はじめに

諸君、
定年になったらバックパック背負って、
一人旅に出よう宣言


 我々団塊の世代は、子どもの頃からやたらと人数が多かった。でも多かったのは、我々の責任ではない。それは、忌まわしい戦争が終わった解放感と、新しい時代への期待とおののきに煽られて、我々の両親が一斉に子づくりに励んだ結果である。この列島総発情の果実として、我々はこの世に送り出された。戦火でボロボロの巷が、突然乳飲み子で溢れたのである。我々は子どもだったから知らないけれど、きっと世間は大迷惑だったことだろう。保育園なんて、もとからなかったから、我々はおむつが外れると道っ端に放り出された。とうぜん小学校の教室からはみ出した。高校の狭き門から弾き飛ばされ、大学のもっと狭き門の前で死闘を演じた。
 ただ人数が多いという、ただそれだけ、他にはなんの罪咎のない我々なのに、気づくと「世代内生き残り戦争」の兵隊にさせられていたのだ。
 しかし我々は、黙々と、この日本人が初めて体験する試練を享受し、精進努力した。溢れるほどいる同い年の若造どもの渦の中で、我々はもがき、叫んだ。だって、声がでかくなけりゃ晩飯のおかずがないんだから。隣りの席の相手を論破しないと、学校で女の子にもてないんだから。とにかく髪でも長くして、ギターでもカキ鳴らして、目立たない、ことには、自分たちの席なんてどこにも用意されてないんだから゜
世間は、そんな我々を団塊の世代などと呼んだ。やれ声がでかいだの、すぐに喧嘩腰になるだの、理屈っぽいだの、やたら世間にたてつくだの、年上の人間を馬鹿にするだの、その割に根性がないだの、散々言われた。
そんな、すったもんだの60年代の終わりから70年代の初頭。政治の病に罹ったやつも、そうでないやつも、折りからの好景気でやっと広き門となった日本企業の中に、無事吸収された。以来幾十年、我々は黙々と働き続けてきた。世間は、そんな我々を口ほどにもない連中と言い、理屈のわりに仕事のできない連中と言い、次第に忘れ去っていった。
 世間から忘れられていた我々世代か、最近、再び、とやかく言われている。
 2007年から、団塊の世代が一斉に退職する。こいつらが再び世間に溢れかえる。なにか受け皿を作らなければ、社会参加の指導をしなくてはと、煩いことで夥しい。まるで迷惑千万な野猿の集団が、静かな住宅街に怒濤のごとく溢れるような言われ方だ。なんだか、また同じことが繰り返されている気がする。そう、我々がこの世に送りだされたときと同じだ。貧弱な社会インフラに溢れる子どもが、女性、子ども用に作られた地域コミュニティに溢れる団塊オヤジになっただけではないか。
 団塊の世代のオヤジ諸君、本書はここで諸君に替わって、世間の連中に対して、諸君の本音を申し述べたい。
 それはつまり、団塊の世代は、団塊などではないということだ。
 我々は一度だって、固まりなどではなかったのだ、ということだ。
 我々は一貫して、一人であった。
 その成長の過程で、世間の狭い門を通り抜けるとき、固まりでなどいられるわけがない。
 繰り返そう、我々は、その誕生時から、自らが一人ぽっちであることを、本能的に知っていた世代である。
 ならば、仕事、家族からの自由を手にしたいま、その本能に沿って生きてみよう。

 手始めは、一人旅がいい。
 仕事と暮らしの肩の荷を降ろして、両手を自由にして、自分にとって必要最小限の物をバックパックに詰めて、見知らぬ異国を旅してみよう。
 本書が言いたいことはこれに尽きる。


 本書は、そんな旅のために必要な旅のウンチクと技術のガイドブックとして書かれている。読んでもらいたい人々は、話題の団塊の世代の諸君だが、もちろん、現在、50歳代の人々にも是非読んでほしい。本書は、間近に訪れる定年後の旅について、いまからどんな準備が可能かを知る手がかりとなると思う。
 なにはともあれ、とりあえず、本書を手にしてほしい。そのときから、諸君の旅は始まる。

定年バックパッカー 十一の心得

一、バックパッカーは一人で旅に出る
 バックパッカーの旅は、気ままな一人旅を基本とする。それはいうまでもなく、自分の行動の全てを自分で決定・管理するということであり、その結果を一人で引き受けるということを意味する。言葉を代えていえば、自己責任に裏打ちされた、気ままな旅ということ。そこで求められているのは、自分一人で生きていける、自立したオヤジ像だ。
 思い返してみれば、我々の日々の暮らしは、衣食住はいうに及ばず、日々の移動、仕事の予定・管理、ちょっとした夜のお楽しみまで、常に誰かの手を借りていた。
 一人旅は、自分の心にまとわりついた、こんな皮膜のような「誰か」を脱いで、生身の自分を外気に晒して生きることに似ている。突然風に晒された生身の自分は、その冷たさにピリピリと緊張して、無防備な我々の五感は鋭く研ぎ澄まされる。炬燵の中でぬくぬくとしていた猫が、常に周りを警戒し、俊敏に動く野良猫に変貌するようなものだ。
 我々は、妻や、コミュニティなどに依存しなくても、自分で生きていく。そんな自立したオヤジに、一人旅を通して変貌する。

二、定年バックパッカーは、両手プラプラで、スーツケースは持たない
 我々の旅の先達は沢山いる。東海道中膝栗毛のヤジさんキタさんに始まって、漂泊の俳人山頭火にも、芭蕉翁にだって共通のことがある。それは、みんな荷物は最小限、肩に担いで、両手プラプラと旅していることだ。それはなぜか、彼らの旅は、自分の足で歩くことを基本にしているからだ。
 歩くという身体運動をスムーズに行うのには、両手でリズムをとり、そのリズムで身体のバランスを保ち、足の負担を減らして、楽しく歩く。
 スーツケースをガラガラと引いたり、押したりは、カッコ悪い。我々は小さな荷物を肩に、両手をプラプラさせて、のんびり歩こう。

三、定年バックパッカーの荷物はひたすら小さく
 旅に出る準備の過程で、バックパックの中身を考える行為は、自分との対話に他ならない。それは、腹についた贅肉を削ぎ落とす行為でもあり、堆積した雑多な本の中から、真に自分の求める1冊を探す行為にも似ている。
 もっと具体的にいえば、俺には本当にパンツが5枚も必要なのかと問うことだ。若い時のように精力倫々でもない我々は、むやみにパンツを汚すこともない。とすれば3枚でよいのではないか。2日ごとに洗濯すれぱよいのだから、とか。いやいや、小便の切れが悪い分、最近のほうがパンツを汚すかも、どうしよう、と考える。
 養毛剤はどうしよう。ボトルのまま持つのは重いから、詰め替え容器に入れる、とか。それはどこで手に入れるかとか緻密な戦略も必要だ。
 問題はカメラ。一眼レフは重いけれど、しかたがないは、本当か? しかも、三脚まで担ぐ必要があるのかい? もっと小さくても、十分なデジカメがあるかもしれない。そもそも、俺の旅に、カメラは必要なのか。
 こうして、自らの肩への重さとして担うに値する、最低限の物を選択し、残ったもの、それが久しく会っていなかった、我々自身の姿なのだ。 (…この続きは本書にてどうぞ)