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ジャンル:単行本 随筆 ノンフィクション 他

寡黙なる巨人

寡黙なる巨人 


著者 : 多田 富雄

  • 判型 : 四六判
  • 頁数 : 248ページ
  • ISBN : 978-4-08-781367-8
  • 価格 : 本体1,500円+税
  • 発売日 : 2007年07月26日

脳梗塞で声をなくし、半身不随からの闘病記
脳梗塞で倒れたその瞬間を境にすべてが変わってしまった世界的免疫学者の多田富雄氏。半身不随となり、声をなくした著者の命がけのリハビリ闘病記と日々のできごとを綴ったエッセイ。

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? 寡黙なる巨人

はじめに

 あの日を境にしてすべてが変わってしまった。私の人生も、生きる目的も、喜びも、悲しみも、みんなその前とは違ってしまった。
 でも私は生きている。以前とは別の世界に。半身不随になって、人の情けを受けながら、重い車椅子に体を任せて。言葉を失い、食べるのも水を飲むのもままならず、沈黙の世界にじっと眼を見開いて、生きている。それも、昔より生きていることに実感を持って、確かな手ごたえをもって生きているのだ。
 一時は死を覚悟していたのに、今私を覆っているのは、確実な生の感覚である。自信はないが私は生き続ける。なぜ? それは生きてしまったから、助かったからには、としかいいようはない。
 その中で私は生きる理由を見出そうとしている。もっとよく生きることを考えている。
 これは絶望の淵から這い上がった私の一年間の記録である。


発端その前夜

 それは二〇〇一年の五月二日のことだった。
 私にとって忘れられない恐ろしいことが起こったのは。満六十七歳の誕生日を迎えてまもなくのことだった。
 私はアメリカヘの出張から帰って、すぐに山形に病気で臥せっている恩師を訪ね、その足で列車を乗り継ぎ金沢で待っていた友人のところにたどり着いた。歓迎の心づくしのワインで乾杯したとき、ワイングラスがやけに重く感じられた。重くてテーブルに貼りついているようだ。なんだかおかしい。それが後で思えば、予兆だったのだ。
 翌朝手洗いに行って紙を使うのに力が入らない。不審だと思ったが、しばらくすると元に戻った。不安にかられて、東京の妻のところに電話して、体調不振を告げた。妻は内科医だから、今夜は早めに帰ること、検査の用意をしておくといった。
 しばらく前から喘息様の発作があるので、金沢の漢方医の診察を受けていた。異変が起こったのは診察の最中だった。話をしていたらにわかに口がきけなくなり、頭の中が真っ白になった。手足の力が抜けて、診察台のほうへ倒れこんだ。
 すぐさま救急車が呼ばれ、金沢医大の付属病院に担ぎ込まれた。救急車のサイレンを後ろに聞きながら、私は担架に横たわった。酸素マスクの下で、これは大変なことになったらしいと初めて心配になった。屈強な看護師が頻繁に血圧を測ったが、異常はない様子だった。その間意識は失われることはなかった。
 症状は一過性で、救急車に乗せられると、すぐ消えてしまった。私は起き上がろうとしたが押さえつけられ、モニターにつながれたまま身動きできなかった。
 二十分ぐらい揺られたであろうか。突然車が止まり、あわただしく、大きな検査室に運び込まれた。型どおりの診察の末、緊急入院ということになった。病状のただならぬことは、時を移さず教授が呼ばれ、抗凝固剤の点滴などが開始されたことからも知られた。
 私は半信半疑だったが、夕刻になって東京から妻が呼ばれた。事情を知った妻は、枕もとで心配そうに見守っていた。しかし私自身はもう大丈夫、もう大丈夫と繰り返していた。
 二回目の発作が襲ったのは午後五時過ぎだった。夕食の途中で急に金縛りのように手足が動かなくなり、体の自由が失われてベッドに倒れこんだ。しかしこのときも一過性の虚血で、医師が駆けつけたときにはもう治っていた。私はまだことの重大さに気づいていなかった。MRI(核磁気共鳴装置)やCT(コンピューター断層撮影法)があわただしく追加され、抗凝固剤などが投与された。このあたりから夢を見ているようで、ただあれよあれよという感じだった。はっきりしていることは、私が少しも動転していないことだった。

死の国からの生還

 妻に冗談をいっているうちに、睡眠剤のせいかいつの間にか深い眠りに落ち込んだ。後で聞くと何度か目を覚まし、断片的なことをしゃべったそうだが、その間に見たことは一続きのものだった。
 私は死の国を彷徨していた。どういうわけかそこが死の国であることはわかっていた。不思議に恐怖は感じなかった。ただ恐ろしく静かで、沈黙があたりを支配していた。私は、淋しさに耐え切れぬ思いでいっぱいだった。  海か湖か知らないが、黒い波が寄せていた。私はその水に浮かんでいたのだ。ところが水のように見えたのはねとねとしたタールのようなもので、浮かんでいた私はその生暖かい感触に耐えていた。
 私のそばには一本の白い腕のようなものがあって、それが私にまとわりついて離れなかった。その腕は執拗に私をタールのような水に引きずり込もうとしていた。どこまでも、どこまでも離れようとしない。私は白い腕から逃れようとあがいていた。
 あれは誰の手、私の手ではあるまい。でも誰の手であろうか。こんな気味の悪い経験をしたことはなかった。  私はその手につきまとわれながら、長い間水の上を漂っていた。そうこうするうちに大きな塔のようなものが見えてきた。四角な威圧的な塔だ。窓のまったくないのっぺらぼうの塔だった。
 下は見渡す限りのスラムだった。荒れ果てて人が住んでいる形跡はない。それがさっきのタールのような海に続いていた。塔の上には一本の旗が立っていた。それが風に翻っているのが、夜目にもはっきりとわかった。これは死の国に相違ない。それならば神様がいるかと思って探してみたが、どこにもその形跡はなかった。
 こんなところまで来てしまったからには、もう帰るわけにはいくまい。ものすごくさびしかったが、不思議に恐怖感はなかった。でも、あんな孤独感を味わったことはなかった。
 もう諦めていたのに、目を覚ましたのは明け方であった。まず目に入ったのは妻の心配そうな顔だった。寝ずに見守っていたのだ。安堵の気持ちが表情に表れている。
 もう大丈夫、と声をかけようとしたが、なぜか声が出なかった。なぜだろうと思う暇もなく、私は自分の右手が動かないのに気づいた。右手だけではない。右足も、右半身のすべてが麻揮している。嘘のようなことだが、それが現実だった。 (…この続きは本書にてどうぞ)