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ジャンル:単行本 随筆 ノンフィクション 他

一言半句の戦場

一言半句の戦場 


 ―もっと、書いた!もっと、しゃべった!


著者 : 開高 健

  • 判型 : A5判
  • 頁数 : 592ページ
  • ISBN : 978-4-08-781277-0
  • 価格 : 本体3,200円+税
  • 発売日 : 2008年05月01日

開高健、最後の新刊
エッセイ、コラム、聞き書き、インタビュー、対談、推薦文……。ひとつの時代を築き、忘れがたい哄笑を残して去った作家、没後20年へ。単行本・全集未収録の文章を集めた最後の新刊、592ページ。

試し読み
写真の背景
1958年(昭和33年)4月28日
「別冊文新春秋」

 写真をとりたいが背景はどこかよろしいと聞かれてガスタンクのあるところと答え、東雲の東京火力発電所へでかける。
 石炭山を歩きまわっていると雨がふりだした。暗い空のむこうに海と埋立地があり、ひさしぶりに酸で洗われたような快感をおぼえる。あたりには石と水と鉄しかなかった。一時間ほどうろついて帰ったが、さわやかな体操をやったような気がして、足が軽かった。


我々は何を
描こうと
しているか

◎ 対談=羽仁進(映画監督)
1958年(昭和33年)6月1日
「映画評論」

偶然性から現実へ

――開高さん、羽仁さんの映画をごらんになっていかがでしたか?
開高 結論からさきにいいますと羽仁さんの映画の魅力は偶然性だと思います。偶然性に対する非常に旺盛で積極的な受入れ体勢、それに感心しましたね。現実のある部分をぬきとり、きりとって作家の個性のままに再構成するというのが創作だと思いますが、ただ私の場合は「パニック」を書いたときにもそうですが、素材そのものの持っているヴァイタリティ、それをできるだけ原型を保ちつつ再構成しようという気持が濃厚にあるわけです。羽仁さんのやっておられるフィルムの上に現われた偶然性をわれわれが活字にする場合は、どういうように採り入れたらいいかということで、小説を書くものにとっては方法的な技術的な問題が起きてくるわけです。映画がどういうふうに作られるか、私はこまかいことはよくわからないので、アマチュアとして発言するのですが、たとえば子供の表情なりその環境を微に入り細に入り描いてゆく、その過程で予期しないものが現実の現象の波のなかに現われてくる。それがおもしろいんですね。その現象の持っているヴァイタリティなり迫力なるものをフィルムとして編集し直して再構成するときは、どこを捨てどこを採るということで、あくまで羽仁さんの個性が現われてくると思うのですが、とくに記録映画のもつ魅力は再構成されながらなおかつキラリとのこっている第一の現実の迫カでしょう。
羽仁 もう一つはそういう予期しないことを……ぼくなんかは最初は『教室の子供たち』を作った頃ですが、それも意識していないようなんですけれど、予期しないものを発見していくという態度に非常に興味があった。そういう仕事のやり方なんです。実はそれが非常にむずかしい問題になるわけだけれども、やはりカメラでそれを撮っていくということは、こっち側からも何か出ているのです。そのことが一つの刺激みたいになって、つまり実験みたいなものですが、刺激に対して何か相手が動いているのじゃないかと思うのです。あとでそれを非常に意識して、劇映画の演出とは違うけれども、全然遠回しの形で何かそこにある刺激が出たときに、また何か出てくる。何か出てくるかということについては、こっちが予想していないものが出てくることが多いと思うのですが、そういう形でだんだん撮影を考えていく。最初はただ発見 だと思った。実際には問題としては発見でもいいわけだけれども、仕事をする手続としてはそうでないということを非常にあとで考えるようになったのです。劇映画でもいちばんいい監督さんたち、昔の名監督というのは踊っているといわれたわけです。振付ですね。だけど今の名監督というのは踊らないわけでしょう。俳優が工夫することの中から見つけているわけです。そのために俳優が苦しむことになるわけだけれどもそれはぼくたちの子供の場合と全然違うが、やはり何かそこから出てくる偶然性だと思うのです。そういう偶然性みたいなものから生れてきた劇映画はすごく迫力がある。そうでなく踊っちゃった映画はやはりつまらないのじゃないかということを今非常に思っているのですがね。それからぼくは開高さんの作品を読んで、全部おもしろかったわけですが、たとえば「パニック」なんか、非常にディテールを追っかけていって、具体性のものを追っかけていくのが突然別のものにかわるでしょう。最後にこれがただネズミの話でなかったということでむしろ感動するわけです。それでびっくりする。そういうものが非常にある。それはぼくなんかも、もちろん『絵を描く子どもたち』に対しても、まず第一に子供の映画だし、子供の心理の映画なんですけども、そこで追っかけていくと、何かそうじゃないものが出てくる。たとえば子供がすごいお化けを作ったりする。子供がかくということが、人間全体にある原始的な意識みたいなもの、そういうものとしておもしろいと思ったわけなんですが、そういうものが開高さんの場合にもあるように感じましたが、そうじゃありませんか。
開高 あれを書いているときにさまざまのものを感じさせられました。ネズミの習性を調べると、一匹一匹はすごく臆病で神経質で頭がよい。ところが一旦モッブになるとたちまち盲目的になって何にもわからずに突っ走っていく。そういうところに日本人の持っているファナティズムを感じたのです。たまたまそのときにアメリカ海軍のとったサイパン玉砕のニュース映画を見ると、崖の上から日本人が飛び込んで集団自殺するシーンがありました。あれはネズミの習性を調べているうちに非常に感じたのです。そこで初めはそういう寓話性の面からだけ書いていこうと思った。ところがネズミの特殊性、あの作品の中でいろいろ書いておいたような、そういう条件――ササの実が百二十年毎に稔る。雪が降ってネズミが巣に入って、春になると盲目的に突っ走って、かりに湖があれば、その中に飛び込んでしまう。そういう特殊性に終始一貫することで、かえって作品に寓話性なり、リアリティなりを出し得るのじゃないか、予期した寓話性を待つより、なにくわぬ顔で事実を徹底的に追及したほうが――ぼくはこう計算してやったわけなんですけれどもね。 (…この続きは本書にてどうぞ)