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Shueishagakugei

謹んで「熊本地震」災害のお見舞いを申し上げます。

熊本地震により甚大な被害が発生いたしました。
お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りいたしますとともに、
被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。
一日も早く平穏な日々が戻りますよう、そして復旧がなされますよう心よりお祈り申し上げます。

(株)集英社

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謹んで地震災害のお見舞いを
申し上げます。

東日本大震災により被災された皆様に、心からお見舞い申し上げます。
また、被災地等におきまして、救援や復興支援など様々な活動に全力を尽くしていらっしゃる方々に、深く敬意と感謝の意を表しますとともに、一日も早く復旧がなされますよう心よりお祈り申し上げます。

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時事問題や社会現象、文化、スポーツまで現代の動きを各界の専門家が解説。

ふたつの「占領の島」、小笠原と沖縄を考える

小笠原諸島返還から50年、いまも終わらない「戦後」

 東京都心部から南に1000キロメートル、「太平洋に浮かぶ楽園」とも言われる小笠原諸島。この島々がほんの半世紀前までアメリカの統治下に置かれていたことは、今では忘れられかけているのではないだろうか。
 1968年6月に小笠原諸島が日本に返還されてから、今年(2018年)で50周年になる。第二次世界大戦中には地上戦が行われ、戦後はアメリカ統治下に置かれ、やがて日本に返還された、という点において、小笠原と沖縄は似たような歴史をたどっている。
 にもかかわらず、現在も米軍基地との関係に苦しむ沖縄と、「楽園」としての地位を確立したように見える小笠原には、どのような違いがあったのだろうか。『核密約から沖縄問題へ 小笠原返還の政治史』の著者、名古屋大学大学院の真崎翔特任助教に解説していただく。

小笠原はいつから日本領になったのか

 小笠原諸島と言ったときに、みなさんはどこを思い浮かべるでしょう。父島や母島であれば、それは「小笠原群島」(父島列島、母島列島、聟島列島の総称)です。
 実際にはほかに、火山列島(北硫黄島、硫黄島、南硫黄島の総称)、南鳥島、沖ノ鳥島、それに13年に噴火した西之島も小笠原諸島に含まれます。

 小笠原群島について、日本も既に江戸初期には認識していました。この段階で「無人島(むにんとう)」と名前を付け、書物にも書き残しています。ちなみに、後世になって「むにんとう」が西欧に伝わった際にいつしか「ぶにんとう」となり、それが転じ、現在も小笠原群島の国際表記は「Bonin Islands」となっています。
 当時、太平洋上の補給地としての重要性はありましたが、日本はこの無人島をしばらく放置していたので、最初に移り住んできたのは日本人ではありません。1830年にハワイのイギリス領事によって、欧米人5人と、ハワイ人20人が父島に入植しました。このことが江戸末期になって日本にも伝わり、幕府は1862年になって、八丈島から父島に38人を入植させています。
 小笠原が日本領になるのは1876年。明治政府が領有を宣言し、イギリスやアメリカが表だって反対しなかったことで認められました。なぜ諸外国が日本の領有権主張をすんなり承認したのかについては、まだ研究の余地があり、詳しい経緯が判明していません。当時の日本が欧米と対等に交渉できたとは考えにくいので、さまざまな歴史上の国際情勢に翻弄されて、結果として日本領になったと解釈しています。
 なお、当時の小笠原には欧米系など、外国から来た島民も居住していたのですが、彼らは日本編入を機に日本に帰化しました。戦時下とアメリカ占領期を経て、現在も小笠原には欧米系の流れを汲む住民がいます。
 硫黄島については、1889年に開発が始まり、1891年に領有を宣言。人口は、1895年には1世帯6人に過ぎなかったのですが、1920年には169世帯983人に達しました。
 硫黄島について、多くの人は「不毛の地」というイメージを持っているのではないでしょうか。事実、現在の硫黄島は一面ジャングルと化していて、とても人が住めるようには見えません。しかし、戦争が始まるまでの硫黄島は「楽園」だったという旧島民の証言が少なくありません。
 そもそもたった四半世紀で人口が1000人近くに激増したというのは、それだけビジネスチャンスがあったことに他なりません。人口をまかなえるだけの水と食料もあり、食生活も本土とそれほど変わらなかったようです。むしろ、後述する強制疎開によって本土に移住させられた旧島民が、生活水準や文化水準の低さに驚いたということも言われています。硫黄島が不毛の地だというイメージは、戦時体制下以降に形成されたものなのです。


硫黄島、摺鉢山から海岸を見下ろす

要塞化の始まり

 第一次世界大戦後、1920年代から小笠原の要塞化が始まりました。1923年には父島に陸軍要塞司令部、32年には硫黄島に海軍の飛行場が着工され、日本にとって南洋進出の重要な足がかりとなります。小笠原諸島の人口は、1940年に7200人(うち硫黄島人口約1000人)を超えるほどになりました。
 ところが太平洋戦争の終盤、44年になり、サイパン島、グアム島が相次いで陥落すると、次の激戦地は、それらの島々と日本本土とを結ぶ中間地点に位置する小笠原となるだろうことが、日本政府にもはっきり予想される事態となりました。
 実際、アメリカにとっても、小笠原は日本本土を空襲するための恰好の拠点であり、このうち、地形上攻略の難しい父島より、すでに飛行場が建設されている硫黄島がアメリカ軍の次の標的として定められていました。
 そこで、44年の夏に、日本政府の指令によって小笠原全体の強制疎開が始まります。
 小笠原全域から約7000人が、関東などに疎開させられました。欧米系の住民をはじめ、本土に身寄りのない住人も多数いたため、疎開生活は困窮を極めたようです。
 研究者の間でも、この強制疎開については賛否両論があります。例えば、強制疎開は当時、唯一のやむを得ない選択肢だったという意見があります。確かに、民間人に1000キロ離れた本土までの自主避難を呼びかけたところで、実質的には不可能だったでしょう。
 ただし、この強制疎開は現在まで続く「帰島問題」という由々しき問題をもたらします。
 対象となったのは主に女性、子ども、老人で、青年・壮年男性は働き手として残されることがありました。硫黄島からは160人、他の島々から660人以上の男性が軍属として徴用されています。欧米系島民は、その外見から徴用中に虐待を受けるということがありました。このうちの一人は、米軍の空襲が始まると、上官が防空壕に逃げている間、人間の盾として外の柱に括りつけられたと証言しています。こうした歴史については、石原俊著『〈群島〉の歴史社会学 小笠原諸島・硫黄島、日本・アメリカ、そして太平洋世界』(2013年、弘文堂)に詳しく書かれているので、ぜひ多くの方々に読んでいただきたいです。

「硫黄島の戦い」で「玉砕の島」に

「硫黄島の戦い」は、一般には、45年2月19日にアメリカが上陸してから、3月26日に勝利宣言するまでを指します。栗林忠道中将以下2万人を超える日本兵が配備され、アメリカ兵も6万人以上が上陸し、1カ月以上にわたる熾烈な地上戦を繰り広げました。「硫黄島の戦い」における死傷者は、日本側が約1万8300人、アメリカ側が2万6038人。ただし、この期間はアメリカの視点に立った定義で、上陸以前から硫黄島への空襲は始まっており、また勝利宣言後も日本兵の抵抗は続きました。「硫黄島の戦い」の前後で亡くなった人を含めると、日本人の死傷者は約2万1900人と推計されています。


硫黄島に今も残る戦跡


 この中には、硫黄島から徴用された島民の多くも含まれており、地上戦に動員された103人中、たったの10人しか生き残らなかったことがわかっています。もともとの島人口のうち、1割近くが戦没したことになるのです。沖縄戦を指して、「民間人を巻き込んだ唯一の地上戦」と表現されることがありますが、それが正確ではないということが、近年の研究でようやく明らかになってきています。硫黄島の歴史については、夏井坂聡子著『硫黄島クロニクル 島民の運命』(2016年、全国硫黄島島民の会)がとても参考になります。

 このとき配備された日本兵2万人は、当然、水と食料の不足に苦しみました。戦時下の物資不足に加え、1000人で暮らしていた島の人口が20倍になったとすれば、到底まかないきれるものではありません。また激しい戦闘で、島全体が徹底的に破壊されました。かつての住民が「楽園」と称した硫黄島は、飢えと渇きと恐怖が染みついた「玉砕の島」に書き換えられました。映画『硫黄島からの手紙』で描かれるような、草も生えない、住むに堪えない島だというイメージはこの後、固定化し、未だに政府が硫黄島の旧島民たちの帰島を許可しない理由として利用されることになるのです。


取り残された戦車


冷戦構造に組み込まれる小笠原

 51年、サンフランシスコ講和条約によって、沖縄や奄美群島、小笠原諸島はアメリカの統治下に置かれることが決まりました。奄美群島のみ、それほど間をおかず53年に返還されますが、小笠原と沖縄の返還までには長い時間がかかります。
 50年の朝鮮戦争勃発によって、小笠原と沖縄の戦略的な価値は飛躍的に高まりました。とはいっても、沖縄と小笠原では、その役割が異なります。沖縄は「示威と抑止」。そこに米軍という存在があり、核が置かれていることが周知の事実になっていました。沖縄に攻撃を仕掛けることは、アメリカとの戦争を覚悟することです。このように、アメリカの力を見せつける形で「盾」の役割を担っていました。ただし、日本本土の米軍基地や自衛隊も同じことですが、もしも敵から攻撃を受けた場合の脆弱性を、アメリカ政府は認識していました。
 他方で、小笠原には「秘匿と反撃」、つまり隠された「矛」の役割がありました。56年から66年にかけて、小笠原に核弾頭や核ミサイル等が配備されていたことが後に明らかになります。しかし、当時、そのことは徹底的に秘匿されていました。この時期は、アメリカが同盟諸国に展開している基地に核を分散配備し始めた時期と重なっています。アメリカにとって小笠原は、秘密裏に核戦力を配備しておいて、日本列島が敵の手に落ちてしまった場合に、太平洋上から反撃するための拠点の一つ、という認識だったと考えられます。
 とすれば、「盾」とセットで効力を発揮するはずの「矛」を、アメリカが返還したのはなぜでしょうか。

小笠原返還に至った理由とは

 大きな理由の一つは、50年代になって原子力潜水艦が開発されたことです。海中からのミサイル発射システムが完成したことで、地上に核兵器を配備する戦略的な重要性が低下しました。
 核兵器を持っている国は、自分が使うとしても、相手には使わせたくない。いざ使うときは、決して反撃を受けないために、相手の核を限りなくゼロに近づけなければなりません。しかし、海中を潜航している原潜に核が積まれているとすれば、それらすべてを確実に無力化することはほとんど不可能です。
 撃つと、絶対に撃たれる。この状態を核抑止戦略用語で「相互確証破壊(Mutual Assured Destruction ; MAD)」と言います。これが成立すると、お互い核兵器を撃てなくなる。「核の手詰まり」という状況です。すると通常兵器が重要視されるようになります。通常兵器であれば、核よりも簡単に使用できる。結果、インドシナ半島を舞台としたベトナム戦争にアメリカが介入を深め、代理戦争が繰り広げられることになったのです。
 原子力潜水艦の開発により軍事戦略上の小笠原の重要性が下がりました。それに加えて、ベトナム戦争も小笠原返還に大きな影響を与えました。
 当時、多くの日本人にとって、連日テレビで報道される「北爆」は、ほんの数十年前に、アメリカから受けた空襲を想起させます。このことによって、世論調査で親米派が減り、中立を志向する層が増えるという結果を招きました。中立派が増え続ければ、日本国内に米軍基地を維持することが難しくなります。アメリカは日本の基地がなければ、ベトナム戦争を効率的に全うすることができません。
 加えて、60年に結ばれた日米安全保障条約の第10条には、発効から10年後、どちらか一方が破棄を通告すると、そこから1年後に失効するということが定められています。70年はちょうどその節目でした。
 日本側は日米安保を継続するつもりでしたが、アメリカは60年安保と同様の闘争が再び起きないかと懸念して、この「70年問題」をかなり真剣に捉えました。そして、日本に条約を続ける気があるのかをしきりに確認していました。

帰島問題が返還の機運に拍車をかける

 また並行して、60年代には小笠原旧島民の帰島問題が盛り上がりを見せていました。戦時中の強制疎開に加え、戦後のアメリカ占領期には、欧米系島民とその家族しか島へ帰ることを許されませんでした。
 アメリカはその後も占領を続ける中で、数百人でもいいからどうか帰島させてくださいという旧島民からの嘆願をたびたび受けましたが、一貫して拒否しています。
 もしも旧島民を抱えてしまうと、小笠原基地の秘匿性を失ってしまううえに、現在も沖縄で絶えず発生している基地と住民との間の軋轢、いわゆる「基地問題」が小笠原でも起きかねないからです。基地として使う以上は帰島を受け入れない、受け入れるくらいなら返還してしまったほうがまだ良い、というのが当時のアメリカのスタンスであったと言えるでしょう。
 そんな中、67年4月に東京都知事に就任した美濃部亮吉は、帰島問題に積極的でした。アメリカの国務省は美濃部都知事の就任直後、駐米日本大使との会談で、今後、小笠原問題が加熱してくるのではないかという懸念を直接伝えています。
 これらの要素が重なりあい、アメリカが日本の世論や政府の意向を気に掛けるという局面が、戦後の日米関係の中で初めて訪れたのです。
 アメリカとしては、どうにか日本の世論を変える必要があります。領土をめぐる戦後処理に対して、アメリカが好意的な対応を取る用意があることを、大々的に示す必要性が急速に高まりました。最も効果的なのは沖縄返還ですが、ベトナム戦争を遂行するためには沖縄を手放すことはできません。そこで代替案として浮上したのが小笠原です。
 交渉の末、最終的に67年11月、佐藤栄作首相とアメリカのリンドン・ジョンソン大統領との間で返還が合意され、68年6月、小笠原諸島が返還されることとなったのです。

小笠原返還後の軍事利用

 建前から言うと、小笠原の施政権が全島一括で返還され、米軍基地はなくなりました。よって、いわゆる米軍基地問題は起きません。
 ただし、厳密には返還後も、冷戦が終わる90年代初頭まで、南鳥島と硫黄島にアメリカの沿岸警備隊(コーストガード)が常駐していました。硫黄島には、同時期にアメリカのアンテナ基地も置かれていました。これが核戦略に使われていたのは明白なのですが、名目上はウェザーステーションということにされていました。この施設も、冷戦終結とともに撤収しています。
 その後、小笠原にアメリカ軍が常駐するということはなくなりました。とはいえ、硫黄島に関しては、日米安保条約第6条に基づき、米軍による自衛隊施設利用が今も行なわれています。2017年には、空母艦載機による離着陸訓練が2度実施されました。このうち5月2日から11日間の訓練では、離着陸の実施回数約3100回。うち、夜間の訓練が約990回。1日当たりの参加人員は最大約300人という大規模軍事訓練です。日本政府や自衛隊の協力なしには実施不可能でしょう。

「硫黄島が居住に適さない」のは事実か?

 小笠原諸島が世界自然遺産に登録され、父島などが観光客を集める一方で、硫黄島は、いまだに日本政府によって旧島民の帰島が許されていないばかりか、民間人の自由な上陸さえも制限されています。
 このため、1万柱以上が残されている戦没者の遺骨収集も、終わりが見えない状況にあります。硫黄島の滑走路の下にも多くの遺骨が埋まっていることがわかっているのですが、この先も基地として使われる以上、その下を掘り返すことは不可能です。
 しかし、アメリカでは旅行会社が「硫黄島ツアー」を催行しており、これに参加すれば、時期は限定されますが民間人でも上陸できます。日本にいては遺骨収集の目的でさえ滅多に上陸できないというのに、かたやアメリカからであれば、「観光」に来ることができるのです。あまりにも理不尽、不条理ではないでしょうか。この不可解な状況を、多くの日本人が知らないというのも問題です。


硫黄島、摺鉢山山頂にあるアメリカの記念碑


 硫黄島は、旧島民が語っていたとおり、人が住めない島ではありません。ただし、日本政府は帰島を望む人たちに対し、不発弾があること、火山活動が活発で地盤の隆起・沈下が激しいことなどを挙げ、居住が難しいとして帰島を許可していません。
 しかし、かつては核配備されるほどの米軍基地が機能し、現在は自衛隊基地が置かれている。しかも観光に利用されている硫黄島が、それほど居住に適さない危険な島だということがあり得るのでしょうか。
 さらに18年4月5日付毎日新聞で、防衛省が硫黄島に防空レーダーの設置を決めたことが報じられました。中国の太平洋地域における活動が活発になったことへの対処の一環のようです。このレーダー配備によって、かなり帰島問題の解決が遠のいたのではないかと思います。
 不発弾や火山活動によって住民を帰島させることができない。それが事実だとしたら、そんなところにレーダーのような精密機械を置けるでしょうか。住民がいないからレーダーを置く、レーダーを置くから住民を帰島させられない。そうした意図がないと言えるでしょうか。国には旧島民に対する説明責任を果たす必要があります。

硫黄島の問題を考え続ける意味とは

 戦後70年を過ぎ、戦争の記憶は遠くなりました。存命の旧硫黄島民も80代以上です。仮に帰島許可が出たとして、そんな高齢の方々が帰っても大変なだけでは、という意見もあるかもしれません。しかし、自分に置き換えて考えてみてください。ある日突然、住み慣れた町から追い出されて、帰りたくても帰れないという状態が、70年以上にわたって放置されているとしたらどう感じるでしょう。
 帰島問題の本質というのは、生活が可能かどうかではありません。国家によって、国民が、国内で「難民」化させられているという状態こそが問題なのです。
 日本国憲法第22条には、居住、移転の自由の保障が明記されています。当然、旧島民には、ふるさとに帰る権利があります。その権利を国家によって不当に制限されているのです。硫黄島の旧島民は年々亡くなられています。国家が理不尽に人権を侵害し続けている状況を正常化するタイムリミットが迫っていると感じます。旧島民が全員亡くなってしまっても、それで「解決」したことになどなりません。法治国家として大きな汚点を残すことになるでしょう。
 帰島を望む旧島民の現状を放置することは、国家による人権侵害の前例を許すということ。過去に前例のあったことは、いつか自分にも降りかかる可能性があるのです。返還50周年の節目に、多くの人々が他人事ではないのだと考え、問題意識を共有する契機になってほしいと切に願います。


硫黄島戦没者顕彰碑

真崎翔(名古屋大学大学院国際開発研究科特任助教)

真崎翔 (まさき しょう)

名古屋大学大学院国際開発研究科特任助教
1986年、愛知県生まれ。名古屋大学大学院国際開発研究科博士後期課程修了。名古屋外国語大学非常勤講師、名古屋大学大学院環境学研究科博士研究員、南山大学アメリカ研究センター客員研究員をつとめ、2018から現職。著書に『核密約から沖縄問題へ 小笠原返還の政治史』(名古屋大学出版会、2017)がある。

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