集英社 知と創意のエンタテイメント 学芸・ノンフィクション

文字サイズを変更 標準

  • Facebook
  • Twitter

情報・知識&オピニオン imidas

塵芥の声を聴く~インビジブル・ダイアリー

Columns

木村元彦

人間の集団があれば多数派が生まれ、少数派の声はかき消される。 権力に、社会に、時流によって圧しつぶされるひとたちが叫んでいることは何か。 ジャーナリスト木村元彦が現場に行き、当事者に会い、その言葉を聴いて伝えたい、マイノリティの記録。

「ロヒンギャヘイトに加担しない」~あるミャンマー難民が語る「人権」

●ヘイトは「不味い」

 美味な料理を最高に不味くする調味料は何か? 自分にとってそれは、食事する空間に放り込まれる差別的な言辞である。数年前、最高のネタを握ると言われる都内の寿司屋に連れていかれたが、そこの板前が特定民族の悪口を言い続けるので、怒鳴って店を出たことがある。一昨年はサラエボで愛用していたレストランが明らかにロマの客を差別しているのを見て足が遠のいてしまった。抗議などというものではなく、本当に胃が重くなり、喉は枯れ、舌は鈍り、味がしなくなる。
 その意味で最近は某所・某ミャンマー料理店に足が向かなくなった。残念なことにロヒンギャに対する中傷が酷いのだ。にこやかに会話をしていても話題が、このラカイン州の少数民族に移ると、まさにカットで切れてしまうのだ。
「あの人たちは元からミャンマーにいなかったよ。最近になってラカイン州に入って来たベンガル人だよ。ラカイン独立を狙っているテロリストだ」
 こう語る店主は生まれ育ちが当時の首都ヤンゴンで、ラカインに行ったことがないのだが、疑義を感じることなくまるでミャンマー政府の代弁者になってしまう。それもいわゆる民主化運動の主体となった「88世代」に属し、NLD(国民民主連盟)のアウンサンスーチーを支持し支援していた人物である。政治亡命のかたちで日本に逃れて来ていて、かつては同じミャンマーからきたロヒンギャの人々と境遇や活動をともにしていたのであるが、ロヒンギャへのヘイトの発信を止めようとしない。
 これは決して珍しいことではなく、インテリ層や社会運動家を含めて、ほとんどのミャンマー人は人道的な見地からの同情はするものの、ミャンマー国民としてのロヒンギャの存在を認めようとしない。理由のひとつには、ミャンマー政府が1982年に制定した「ビルマ市民権法(国籍法)」がある。同法はビルマ、カチン、カレン、シン等々、135の民族を土着の国民と認めているが、この中にロヒンギャは入れられていない。この法律によって、公的な歴史教育がその存在を認めなくなってからすでに38年が経ち、民主化勢力の人間でさえ、この官製のデマによってロヒンギャに対する排斥と迫害を煽動されているのである。接客の物腰も柔らかく、普段も良識的な発言を忘れない店主が、ことロヒンギャの話題になると、人が変わってしまうのを見るにつけ、その分断政策の罪深さを感じずにいられない。
 心が痛むのは、店から拡散されるロヒンギャヘイトの影響が小さくないことだ。実際、ロヒンギャの迫害の記事につくヤフーコメントなどで「自分はミャンマー料理の店に行って現地事情を聞いたけれど、あの弾圧はロヒンギャの方に問題があるらしい」というコメントが数多く見られる。

●「ロヒンギャはミャンマーの民族」

 ところが、素晴らしく美味なミャンマー料理店を発見した。それは大阪の南海高野線沢ノ町にあった。店名は「ミャンマービレッジ」。ここの店主、アウンミャッウイン(46歳)は、ビルマ民族であるが、「ロヒンギャは違法移民」というフェイクニュースを聞くと流暢な大阪弁で常に反論するのだ。


アウンミャッウインさん

「ロヒンギャが土着やないと言うてる人はロヒンギャの歴史を知るべきや。かつてビルマ政府はラカイン州のムスリム、つまりロヒンギャを国民として認めていたわけや。今になって違法移民とか言っとるけど、そこには矛盾があるわけや。ミャンマー政府のスポークスマンは『わが国を植民地にした帝国主義時代のイギリス政府に問題がある』と言っとる。『ラカイン州のムスリムはもともと住んでいたんやない。イギリス政府がベンガル地方から連れて来たのや』と。なるほど、仮にそれを事実やとしよう。ではイギリス政府はいつビルマを支配していたか? 1885年(※)。100年以上も前や。よそから連れてこられたとしてももう1世紀を超えて定住してるやんか!」

 だから、と続ける。

「ロヒンギャは紛れもなく先住していたミャンマーの民族や、彼らを迫害から救わなくてはあかん」

 さらには、ミャンマー政府の思惑をこんな風に腑分けしてみせた。

「僕が考えるに、テインセインという大統領が2010年にロヒンギャの票が欲しくて、ホワイトカードという永住権つきの証明書を彼らに渡した。ところが、ロヒンギャは仏教徒に同化するどころか、自分たちのアイデンティティを堅持したままだった。すると、コントロールできないなら出て行けとばかりに、ホワイトカードを渡していた人に、それを全部返せと言い出した。これを日本で分かりやすく言うと、在日コリアンの人たちに特別永住権を渡しておいて、それを返せと言うようなもんやで。そんなもん到底、受け入れられへんよ」

 こんなことを公言し続けるビルマ民族の人物にはこれまで会ったことがない。極めて稀有な存在であるが、なぜ彼はかような思考に至ったのか?
 それはアウンミャッウインの半生に起因していた。しばし、その背景を羅列する。


大阪にある「ミャンマービレッジ」外観

●民主化運動で捕まり出国

 ミャンマー全土を民主化運動が覆った1988年、アウンミャッウインは高校生でありながら、その渦中に身を投じていた。軍事クーデター(1962年)を起こしたネ・ウイン将軍の社会主義政権に対する不満は自分にもリアルにあった。祖父が持っていた土地が全て没収されて国有地にされてしまったのだ。


1988年8月29日、ミャンマーの首都ヤンゴン(当時)で民主化を求めて行進する学生たち

 当時のミャンマーは権力が一極に集中した統制経済でモノもカネもなく、アジア最貧国になりつつあったが、不満は力で抑えつけられた。「社会主義」とは名ばかりの独裁だった。アウンミャッウインは名門ダゴン高校で学生連盟のメンバーとして熱心に民主化活動を続け、ヤンゴン大学に進んだ。1995年にNLDのリーダー、アウンサンスーチーが自宅軟禁から解放されたのを契機に、スーチーが演説するビデオテープをダビングして秘密裏に配っていた。ところがこれがバレて憲兵に逮捕された。
 取り調べは過酷を極めた。長い拷問の末に親の請願で何とか釈放されたが、監視も圧力も厳しく、このままこの国にいても将来はないと考えた。ブローカーに20万チャットを払って国外に出た(日本円にすれば約10万円だが、当時の公務員の平均給料は1000チャットだったという)。それが1997年10月のことだった。ミャンマーの政治亡命者の多くが選択する職業である船員となり、航海を続けながら、民主化を待った。

●送還の危機を逃れるため日本に上陸

 しばらくしてドイツ船籍の貨物船に乗っていたときのこと、アメリカのタコマを出たところで仲の良かった船の情報担当職員から、「お前はスリランカに着いたら、現地の公安に引き渡されることになっている」とこっそり告げられた。身元がバレていたのだ。戦慄した。送還されたら、また逮捕が待っている。それまでに逃げなくてはならない。スリランカまでの船の寄港地を調べると、1カ所だけあった。それが日本の広島だった。
 アウンミャッウインは、船が瀬戸内の港に接岸すると同時に入国審査官が乗り込むのを待たずにゲートを突破した。イミグレ(入国管理局)の職員が追って来たが、自転車を拾ってしゃにむに逃げた。何とかまいたものの、同じ場所にいるのは危険である。ヒッチハイクをしようとしたが、車は止まってくれず、タクシーを拾った。もとより日本語は何もできず、手持ちのカネはドル紙幣しかなかった。

「日本の首都であるトーキョーに行こうとして唯一知っている列車、シンカンセン、シンカンセンとドライバーに伝えましたんや。駅に着いたんやけど、円を持っていなかったので運転手さんにものすごく叱られた。何やいろんなものを売っている店、今思うとリサイクルショップに連れて行かれてそこで両替したのを覚えています」

 1998年3月のことだった。
 東京では、当初ホームレスをしていた。新宿に出て柏木公園やアルタ前で寝ているうちにとび職や下水工事の人と知り合って仕事をもらった。

「とび職の日当は日本人は1万円でしたけど、当時の僕は在留資格がないから、親方が半分抜いて取って5000円。文句は言えなかった」

 この頃のアウンミャッウインは社会的な地位がないゆえに銀行口座が作れず、稼いだカネの全財産をいつも首から下げた南京袋に入れて管理していた。
 仕事仲間にミャンマー人がいたので、祖国の政治情報を仕入れることができた。スーチーとNLDを支持する志は潰えることなく、日曜日は新宿から品川まで歩いて行き、ミャンマー大使館の前で民主化要求のデモをした。大使館が警察を呼ぶのでその度に走って逃げた。やがて同胞の知り合いが増えて、彼らが暮らすシェアハウスに住むことになった。生活の基盤が固まると人の繋がりもさらに広がった。窮状を見かねた在日コリアンの知人が、焼肉店の仕事を紹介してくれた。肉の切り方から、タレの作り方まで、最も親切に教えてくれたのが、後にメジャーに行く有名プロ野球選手のお父さんだった。

●「刑務所の方がまし」な入管へ……

 不安定な日雇いから、食事も確保される飲食の仕事に移り、大使館への抗議活動も続けていたが、2002年の6月に不法入国の容疑でついに逮捕されてしまった。懲役3年、執行猶予5年を言い渡されたが、執行猶予中、十条の入管(東京入国管理局第二庁舎、現在は統合され港区品川に移転)に入れられた。エアコンの壊れた10畳の部屋に20名が押し込められていた。移動時には手錠と腰ひもで縛られて、シャワーは週に2回で、浴びていられるのは5分だけ。途方に暮れていると、同じ部屋にいたスーダン人の難民が、日本弁護士連合会を教えてくれた。そこで手紙を書いた。

「面会に来てくれたのが渡邉彰悟弁護士やった。品川の大使館に抗議行動に行っとったときから、難民救済については有名な先生やと僕も知っていた。渡邉先生は、『あなたは有罪判決を受けたけれど、日本政府に裁判を起こしますか』と聞いてきた。でも僕はそれは断ったんや。僕は自分の都合で勝手に日本に来たんやから。でも難民申請はお願いした。僕はミャンマーに帰ったらまた逮捕されてしまうからね」

 渡邉弁護士は手続きに入ってくれた。アウンミャッウインは難民審査参与員にインタビューを受け、ミャンマーを追われた経緯、日本での生活、帰国すればどうなるのかを話した。しかし、申請後、いつまで経っても何の回答もなかった。非認定であっても結果が出れば再申請という手段に移ることが出来るが、それすら出来ずにただ待つだけであった。
 その間、必死に独学で日本語を勉強した。5カ月が経過すると、新しく出来た茨城県牛久の東日本入国管理センターに移された。難民申請は認められず、2年間収容されていた。


茨城県牛久市の東日本入国管理センター外観

「忘れられない。牛久の収容施設4ブロックの10号にいました。錆びた赤い水しか出なくて、飲みたくないと言うと懲罰室に入れられました」

 入管の収容施設の中でその住処である「4B10」という詩を書いた。ミャンマーは今どうなっているのか、なぜ自分はこんな目に遭わなくてはならないのか。理不尽な境遇に対する言葉がほろほろとこぼれ出た。牛久入管での絶望を表した詩には、2年間の拘束の後、「仮放免」(収容の一時的な解除。就労が禁止され、居住する都道府県からの移動が制限される)の許可が出て出所すると、友人が曲をつけてくれた。さらに知人のビデオカメラマンの手によって映像化された。YouTubeで今でも見ることができる。


●「仮放免」からの難民認定だが、喜びはもはや……

 アウンミャッウインは、ようやく外に出られることになったが、仮放免はその名の如く、あくまでも仮の「リリース」であり、月に1回入管にその更新に行くことを義務付けされている。非人道的なのは、更新時に、何の前触れもなくそのまままた収容されるという例が多々あることである。そこには法的に何の合理性もない。ただ入管の胸三寸である。「入管よりも刑務所の方が、(法律に基づくゆえに)ましだ」と言われる所以でもある。アウンミャッウインは3回目の更新の前に入管に呼ばれた。

「また逮捕やと思った」

 覚悟を決めて出頭した。職員がいつもと違う口調で言った。
「あなたは難民認定されました」
 2004年8月15日のことだった。ほぼあきらめかけていた難民申請が認められたのだ。不思議と何の感情も湧いてこなかった。それまで38回のヒアリングを受けていた。朝早くから小さな暑い部屋に呼ばれ、その度に同じことばかり聞かれた。あなたの名前は? 父は? 母は? 何で日本に来たのか? 「この前、聞いたでしょう!」と言いたくなる気持ちをぐっと抑えて向かった。
 認定に続けて、職員は言った。
「あなたは日本の法務大臣から、認められました。嬉しいですか?」
 静かに返答した。
「そんな気持ちはもうない。2年間も僕は収容された。仮放免されても仕事をしたら、逮捕される。こんな扱いをされたことに疑問を感じますね」

●難民として生きる中、大学を志す

 アウンミャッウインは2年ぶりに焼肉店に連絡を取り、再び働き始めた。店員の人たちは皆、また温かく迎えてくれた。料理主任には特にお世話になった。料理の腕もぐんぐん上がった。やがて生活にゆとりが出てくると店のスタッフに言った。
「俺、大学に行くからここを辞める」
 このときの心境をこう語る。

「僕が日本に来たのは肉を切るためやなかったことを思い出した。僕はミャンマーで時間が止まっていて大学生のままやった。だからもう一度学び直したかった。焼肉屋は辞めることになるけど、店のみんなは、応援する!がんばれ!と言うてくれた。めっちゃ嬉しかった。何を学ぶか考えた。ヤンゴン大学では文学部の学生だった。でも難民になって人生経験を経て、法律の大切さが身に染みた」

 UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)による難民高等教育プログラムを利用して関西学院大学の法学部に入学した(彼の関西弁はここから始まる)。学部を卒業後は大阪市立大学の大学院に進み修士論文(“The Survival Strategy of a Burmese Asylum-seeker”「ビルマ難民申請者の『生き延びる』ための戦略」)を仕上げた。その評価は高く、ドイツのボーフムの大学に招かれて非常勤講師などを担った。一方でビジネスにも手を広げ、自ら介護職の資格を取り、介護ビジネスのオフィスを立ち上げた。さらには料理の腕を活かしてミャンマー料理のレストランを開くに至った。


「ミャンマービレッジ」の中にはミャンマーの国旗が掲げられている

●人権を学べば、差別はなくなる

 今、アウンミャッウインは、あまりにも多いミャンマー出身者によるロヒンギャへのヘイト発言に怒っている。

「ミャンマー版の『ネトウヨ』でもある彼らは僕と議論になると絶対に負ける。それは僕が正論を言うからや」

 スーチーを支持して民主化運動に邁進した「88運動」の人たちでさえ、ロヒンギャというワードが出た途端、すごく差別的になる。これはなぜなのか。極めて本質的なことをアウンミャッウインは分析した。

「もともと、あの民主化運動は人権意識で活動していたんやない。今、思えば僕たちは民主主義というよりも自由を求めていただけやった。単に独裁者、独裁政権を倒したかっただけ。88運動世代の人にしても軍事政権のもとで生まれて育ってきた人たち、やから、彼らは人権教育を受けたことがないんや。受けていた教育は、国を愛するとか、仏教はすごいぞ、という程度のレベルでしかなかった。
 ロヒンギャ問題について、一番今のミャンマーに必要なのは、人権教育の支援やよ。それも小学校からの。それこそが本当のロヒンギャ支援ですよ。僕たちは軍事政権の下で生まれ、そこで大きくなり、人権と言う言葉さえ知らんかった。僕たちが学んでいたのはミャンマー型の社会主義だけや。いわば洗脳ですやん。政治学を学ぶことができなかったことを僕たちミャンマー人は素直に認めないとあかん。
 僕がロヒンギャの存在を知ったのは9歳のときやったけれど、そのときはお父さんもお母さんも『あいつらは不法入国者でテロリストたちだ』と言っていた。でもあとから、それは偏見だったと気づいた。そもそも万が一、不法滞在者やったとしても迫害や弾圧をしてはいけない。不法移民はどこの国でもある。それでも人権として宗教の自由、移動の自由、結婚の自由、結社の自由を担保するべきや」


 88世代の民主化運動が単に強権政治に対する打倒行為でしかなかったというのならば、今、自身が纏っているこれら人権への意識はどこで学んだのか。

「僕が日本に来て、そこで通った大学で、です。関西学院大で、人権教育を学びました。法学部政治学科の国際関係コースの中の国際人権を専攻して移民と難民について研究したのです。大阪市立大では都市政策共生社会分野。それで僕は、『これは差別』『これは悪い』という判断がようやくできるようになったんや」

 最後にぽつりと大事なことを口にした。

「まあ学問というよりも基本的な人権のことさえ、ミャンマーの国民はわかったらいいんです。それはめちゃくちゃ簡単なこと。自分たちがされて嫌なことは、人にはしないということや。僕たちはまだ浅くて若いけれど、地球とともに人類も時間を重ねていけば、民族とか言葉の壁を全部乗り越えていくと思うのです」

 話し終えると厨房に戻った。今日もアウンミャッウインは料理の仕込みに余念がない。難民として生きる術として体得した技。丁寧に出汁を取り、肉を裁く。モヒンガー(魚のスープ麺)の重厚な香りが鼻をくすぐる。ランチを終えた直後だったが、今聞いた話が、さらに食欲を刺激しているのは言うまでもない。


現在コロナ禍で、「ミャンマービレッジ」は休業を余儀なくされているが、アウンミャッウインは感染者数の動向を見て再開する決意をかためている。

(※)
編集部注:第3次英緬戦争の結果、イギリスは1885年11月28日にビルマ(当時)の首都マンダレーを占領。86年1月1日、ビルマを正式にイギリス=インド帝国に併合し、イギリス領ビルマとなった。

*写真の複写・転載を禁じます。

木村元彦 (ノンフィクションライター、ビデオジャーナリスト)

木村元彦 (きむら ゆきひこ)

ノンフィクションライター、ビデオジャーナリスト
1962年、愛知県生まれ。中央大学卒業。東欧やアジアを中心に、スポーツ文化や民族問題などの取材、執筆活動を続ける。著書に『誇り』(98年、東京新聞出版局)、『悪者見参』(2000年、集英社)、『終わらぬ「民族浄化」セルビア・モンテネグロ』(05年、集英社新書)、『蹴る群れ』(07年、講談社)、『社長・溝畑宏の天国と地獄』(10年、集英社)、『争うは本意ならねど』(11年、集英社インターナショナル)、『徳は孤ならず』(16年、集英社)、『橋を架ける者たち』(16年、集英社新書)、『無冠、されど至強』(17年、ころから)など多数。『オシムの言葉』(05年、集英社インターナショナル)で第16回ミズノ・スポーツライター賞を受賞。

>imidas PCサイトはこちら

  • オーパ! 完全復刻版
  • 『約束の地』(上・下) バラク・オバマ
  • マイ・ストーリー
  • 集英社創業90周年記念企画 ART GALLERY テーマで見る世界の名画(全10巻)

令和2年7月豪雨被災お見舞い

このたび令和2年7月豪雨により各地で被災された皆様に、心からお見舞い申し上げます。また、被災地等におきまして、避難生活や復興支援など様々な活動に 全力を尽くしていらっしゃる方々に、深く謝意と敬意を表します。一日も早く 復旧 がなされますよう衷心よりお祈り申し上げます。

株式会社集英社

  • 集英社・熊本地震災害被災者支援募金のお知らせ
  • 第5回「集英社・熊本地震災害被災者支援募金」募金状況とご報告
  • 集英社・東日本大震災被災者支援募金のお知らせ
  • 集英社・東日本大震災被災者支援募金募金状況とご報告

本ホームページに掲載の記事・写真の無断転載を禁じます。すべての内容は日本の著作権法並びに国際条約により保護されています。
(c)SHUEISHA Inc. All rights reserved.